太田述正コラム#12690(2022.4.14)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その28)>(2022.7.7公開)

 「御所の周辺では、会津藩・薩摩藩と長州藩の間で激戦が繰り広げられた。
 日付が19日にかわて・・・辰刻(午前7時)には旗色が悪くなった長州藩兵が長州藩邸と鷹司邸に逃げ込み<(注43)>、そこをめがけて三方から火矢が打ち込まれたため、両邸から火があがった。

 (注43)「鷹司輔煕<は、>・・・関白在任中、朝廷は長州藩と結びついた尊王攘夷過激派の三条実美・姉小路公知らが次第に発言力を拡大させる。孝明天皇が将軍徳川家茂を伴っての賀茂神社・石清水八幡宮行幸が行われ、<1863>年8月には大和行幸、譲位親征が企図された。しかし、尊攘派の増長に孝明天皇は不快感を表し、公武合体派の青蓮院宮らは、京都所司代松平容保および薩摩藩と組んで八月十八日の政変を強行。輔煕は関白の座にありながらこの政局に関与できず、また三条実美らの帰京を運動したため、12月には島津久光の建言により関白を免ぜられた。
 翌・・・1864年・・・7月に起きた禁門の変に際しては、鷹司邸は久坂玄瑞や寺島忠三郎ら長州藩兵が立て篭もり、会津・薩摩・幕府軍の攻撃を受けて焼失する。これにより鷹司家は長州藩と気脈を通じているとの嫌疑をかけられ、輔煕は参朝を停止され謹慎処分となり、諸大夫の青木吉順は京都町奉行に逮捕された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E8%BC%94%E7%85%95

⇒長州藩兵が鷹司邸に逃げ込んだ背景として「注43」を掲げておきましたが、禁門の変に至る輔煕の言動もまた、何度も繰り返しますが、私見では、基本的にその全てが近衛忠煕らの「指示」に基づくものであるところ、思えば、輔煕も損な役割を演じさせられたものです。(太田)

 砲声が轟音を立てるなか、物凄い勢いで日は燃え広がり、「どんどん焼け」<(注44)>呼ばれる大火となった。・・・

 (注44)「従来は・・・、乃美織江ら長州兵が撤退時に河原町の長州藩邸に放火したことが原因とされていたが、西隣の寺町にある本能寺は長州藩邸制圧を狙った薩摩兵の砲撃により真っ先に焼け落ちており、北側の角倉邸、南側の加賀藩邸や対馬藩邸、東側の鴨川対岸が無事に火災を免れたことから「長州藩邸はすぐに鎮火されたが、敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家が福井藩、一橋慶喜勢、会津藩・薩摩藩兵、新選組らの砲撃により炎上し、その火が延焼した」可能性も浮上している。この際、敗残兵を匿っていないにも関わらず日頃は勤皇派に協力的な施設も砲撃されている。なお鷹司邸は一橋勢が攻撃しているが、永倉新八の回顧録では大槻銀蔵が放火して長州兵を燻り出した新選組の手柄として記載されている。
 国立歴史民俗博物館館長の宮地正人は「大火は、会津藩が長州残党を狩り出すため不必要におこなった放火が原因だ、との感情が強く」と町民からは評判の悪い会津と新選組が原因扱いされていたと指摘している。
 幕府は京都市民の救済のために米を用意し払い下げを行ったが救済としての効果は低く、被災市民は幕府に不満を募らせることとなった。一方、騒乱を起こし敗残兵を匿うことで大火の原因となった長州藩に対しては恨む声よりも同情する声が強まった。京都から逃走中に尼崎で自害した長州藩士山本文之助は残念さんとして祀られ畿内から参詣人が相次いだ。幕府はこうした長州同情論を抑制すべく長州藩の罪状を記した制札を建てて長州藩を批判するとともに市民の長州藩への協力を禁止した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%A9%E3%82%93%E7%84%BC%E3%81%91

 勧修寺家は火災から免れた。
 だが、会津藩兵によって家中を滅茶苦茶に荒らされ、什器や衣服にいたるまで奪われたという。
 ・・・勧修寺経理<(注45)>(つねおさ)は会津藩を「悪と云(いえ)ども余りある」・・・と恨んだ。」(171~172)

 (注45)1825~1871年。「廷臣八十八卿列参事件に養父・顕彰及び穂波経度と共に参加する。・・・1863年・・・に右少弁、・・・1864年・・・に蔵人に任じられるが、勧修寺家が毛利氏の執奏家であったために禁門の変に座して官職を奪われて蟄居を命じられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA%E7%B5%8C%E7%90%86
 「武家からの上奏が武家執奏となります。次に武家伝奏は、武家からの上奏を取り次ぐ朝廷側の窓口のことです。武家の奏(上申することや、意見すること)を伝える、ということですね。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218972597

⇒正親町三条邸宅も消失しているところ、それが、正親町三条実愛の女子が毛利敬親の養女に迎えられ、長府藩藩主の毛利元敏の正室になっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%84%9B
から狙われたのか、それとも延焼によるものなのか、定かではありませんが、前者の可能性が高いのではないでしょうか。
 それにしても、「どんどん焼け<による>・・・物的被害は焼失町数811町(全町数1459)、焼失戸数27,517軒(全戸数49,414軒)・・・、人的被害は負傷者744名、死者340名・・・を記録したが二条城や幕府関係の施設に被害は見られなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%A9%E3%82%93%E7%84%BC%E3%81%91 前掲
こと、及び、その人的被害が、「禁門の変の戦闘自体による人的被害は長州側が281名、会津・薩摩側が101名であった」(上掲)と、人的被害だけでも戦闘自体による被害に匹敵していること、から、官軍側で、もっぱら会津藩が評判を更に急速に落としたのは当然であるところ、ここでもまた、近衛忠煕らは、思惑以上の「成果」を上げることができた、と言えそうです。(太田)

(続く)