太田述正コラム#12692(2022.4.15)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その29)>(2022.7.8公開)

 「・・・禁門の変の事後処理は、長州藩が三家老に切腹を命じたことにより、幕府の長州征討軍との戦闘は避けられた(第一次長州征討)。
 また成長総督府は、三条実美など五卿の太宰府移転を解兵条件とし、それを長州藩は受け入れた。
 こうして早期解兵は征長総督徳川慶勝によって進められた。
 そして長州藩に対する処分も京都で決定しようとした。
 だが、一橋慶喜、松平容保、松平定敬の一会桑は、将軍不在のなかで決めることに反対した。
 公家たちは将軍の上京を望んでいたが、一会桑も支持したのである。・・・

⇒近衛忠煕らは一橋慶喜を通じて将軍家茂に解決不可能な課題を直接つきつけ続けて家茂を追い詰め将軍職返納ないし大政奉還を行わせようとしていた、というのが私の見方であり、松平容保と定敬兄弟は、慶喜の口車に乗せられて、そんな陰謀の共犯にさせられてしまったというわけです。(太田)
 ようやく・・・1865<年>5月16日・・・に将軍家茂が・・・江戸を出発した。
 22日に入京参内し、翌日に長州再征の本拠地となる大坂城に入った。・・・
 外部からは関白二条斉敬が幕府を支持し、内大臣近衛忠房が長州を支持するという対立構図が生まれていると噂された。
 この噂は虚説とはいいがたかった。
 中御門によれば、二条と中川宮朝彦親王は天皇から幕府が願う長州再征の許可引き出そうとし、それに近衛と議奏正親町三条実愛は反対しているという。
 天皇は幕府との関係を重視するため、長州再征を聴許するのではないかと予想した。
 中山忠能は、議奏を辞めてから朝議の模様を正確につかめなかった。
 彼は、中川宮と武家伝奏野宮定功が幕府の肩を持ち、それに対抗する正親町三条は分が悪いと見ていた。・・・

⇒近衛忠煕を頭目とする五摂関家は、私見では一体であるにもかかわらずそうではないような印象を振りまくことに努めてきたおかげで、世間だけではなく、朝廷内においてすら、(五摂関家の当主達プラスαを除き、)騙くらかすことに成功していたことが分かります。(太田)

 <そんなところへ、>長州再征に加え、兵庫開港という難題をつきつけられる。
 9月16日、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四各国艦隊が兵庫沖に出現したのである。
 これは四ヵ国側が、安政の条約(日米修好通商条約など・・・)で幕府側が延期していた兵庫開港<(注46)>を、将軍に要求するためであった。

 (注46)「兵庫港(兵庫津。かつての大輪田泊)は・・・1858年・・・に締結された日米修好通商条約およびその他諸国との条約(安政五カ国条約)により、・・・1863年からの開港が予定されていたが、・・・孝明天皇が京都に近い兵庫の開港に断固反対していた。このため、幕府は文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)を派遣し、英国とロンドン覚書を交換し、兵庫開港を5年間延長して1868年1月1日とすることとなった。
 1863年から1864年にかけて長州藩と、<英仏蘭米>の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。
 英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画した。パークスは、他の3国の合意を得、連合艦隊を兵庫に派遣し(長州征伐のため、将軍徳川家茂は大坂に滞在中であった)、幕府に圧力をかけることとした(賠償金を1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しすることを提案した)。
 <1865>年9月13日・・・、キング提督を司令官とした英国4隻・・・、フランス3隻・・・、オランダ1隻・・・の合計8隻(米国は今回は軍艦は派遣せず)からなる艦隊は、パークスに加えてフランス公使レオン・ロッシュ、オランダ公使ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックおよびアメリカ代理公使アントン・ポートマンを乗せて横浜を出港し、9月16日・・・には兵庫港に到着した。
 幕府は老中阿部正外および松前崇広を派遣し、9月23日・・・から四カ国の公使との交渉を行わせた。四カ国は、幕府に対して「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張した。四カ国の強硬姿勢から要求を拒むことは困難と判断した阿部、松前の両老中は、2日後やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。翌日、大坂城に参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印の不可を主張するが、阿部・松前はもし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊するとした自説を譲らなかった。朝廷は、阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、9月29日・・・両老中は解任されてしまった。
 このため、四カ国は先の要求を再度提出し、10日以内に回答がなければ拒否とみなすとの警告を発した。10月7日・・・、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国に対して回答した。開港日は当初の通り<1868>年12月7日・・・であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。また、同時に関税率の改定も行われ、幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。
 ところが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、なお兵庫開港については勅許を与えない状況が続いた。兵庫開港の勅許が得られたのは、延期された開港予定日を約半年後に控えた<1867>年5月24日・・・のことである。第15代将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てようやく5月24日勅許を得ることができた。
 <1867>年12月7日、各国の艦隊が停泊する中、神戸は無事開港した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E9%96%8B%E6%B8%AF%E8%A6%81%E6%B1%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒「パークス赴任前に代理公使を務めたアレクサンダー・ウィンチェスターが本国に天皇の勅許を求めるとこと提唱しており、本国政府はそれを仏蘭米政府と検討・了承していた<という背景の下、>・・・<パークスは、>赴任の途中に寄航した長崎で、近々幕府を倒す内乱が発生するとの噂を聞いて<おり、>・・・横浜に到着した<後、>幕府との交渉を開始するが、当時は将軍など幕閣の大半が第一次長州征討で江戸を留守にしていたため、・・・仏・蘭とともに連合艦隊(米国は代理公使のみの派遣)を兵庫沖に派遣し、威圧的に幕府・朝廷と交渉<することにした>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9
というわけですが、既に相当の日本通になっていた英公使館通訳官のアーネスト・サトウらから日本の政治情勢をインプットされていたはずのパークスは、この開港要求事件が日本の政治に及ぼす影響を重々承知していた可能性があるところ、私は、サトウへの、近衛忠煕/薩摩藩を牛耳っていた島津斉彬コンセンサス信奉者達、による耳打ちがあった可能性すら否定できないと思っています。(太田)

 翌日、四ヵ国代表者は老中格小笠原長行らに対し、7日間のうちに回答するよう求めた。」(176、178~179)

(続く)