太田述正コラム#12696(2022.4.17)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その31)>(2022.7.10公開)
「もう一つの難題である諸外国の要求に対処するため、将軍家茂は大坂城に戻った。
9月25日から26日にかけて議論は行われた。
老中阿部正外と松前崇広は、・・・天皇の許可を得ずに兵庫開港を認めるべきだと主張した。
そして家茂も、それを受け入れた。
しかし、家茂に呼ばれて大坂に来た一橋慶喜は、天皇の許可を得るべきだと主張した。
慶喜は、外国側から10日間の猶予を得ると京都に戻り、28日の朝議で天皇から許可を得る必要性を訴えた。
29日の朝議では、天皇の許可を得ずに開港を進めようとした阿部と松前の官位剥奪、謹慎という御沙汰が出された。
さらに問題が発生する。
10月1日、尾張藩前藩主徳川茂栄(もちはる)(茂徳(もちなが))<(注49)>が関白二条斉敬に家茂の将軍辞表を提出した。
(注49)「茂徳<は、>・・・1865年・・・4月、長州再征に際して幕府より征長総督就任の内命を受ける。慶勝側近らの猛反発を受け総督は紀州藩の徳川茂承に変更されたものの、茂徳にも上京が命ぜられ、大坂城に滞在する家茂の側にあって幕政に参与する。・・・1865年・・・閏5月、諱を茂栄に改める。同年6月、幕府より旗本御後備を命じられる。同年9月の兵庫開港要求事件とそれに続く条約勅許の過程においては、徳川慶喜らとともに対応に奔走し<たところ、>・・・家茂は、・・・茂徳の対応を高く評価し、「玄同<・・隠居号・・>殿は向後親と思ふそよ」の上意を発している。茂徳も家茂に対して深い思慕の情を抱いており、自ら家茂の肖像画制作にも深く関与している。同年10月、将軍不在の江戸にあって江戸留守居を命じられ、東上する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E5%BE%B3
家茂は外国と戦争しても勝算はないから安政の条約を朝廷で許可してほしい。
将軍職としての責務をはたせなかったため、将軍職を慶喜に譲りたいと述べていた。
10月3日に家茂は江戸に帰るため大坂を出発した。
この情報を得た内大臣近衛忠房と議奏正親町三条実愛は願意どおり東帰させることを支持したが、二条と中川宮朝彦親王は反対している。
10月4日、家茂一行が伏見を通りかかったところを、一橋らが押し留めた。
説得の末、江戸に帰ることは回避され、家茂は二条城に入った。
⇒私のヨミは、慶喜が、近衛忠煕らと事実上示し合わせた上で、孝明天皇に安政諸条約を許可(承認)させるためだと「同志」の茂徳を説得し、茂徳をして家茂に芝居をさせた、というものです。
(この時点で、慶喜が将軍に就任するのは、就任後、対外交渉を行いながら幕府の内部崩壊を図るという二正面作戦を行わざるを得ないので、彼は時期尚早だとふんだのではないでしょうか。)
家茂が将軍を辞任し、慶喜も就任を拒否すれば、幕府は将軍不在になってしまい、事実上、幕府は機能を停止してしまい、政治、とりわけ外交に関する責任を、朝廷、より端的には孝明天皇、が、事実上全面的に負わなければならなくなるところ、そんなことを、少なくとも孝明天皇の気持ち的には、堪えがたい上、かつそもそも不可能なので、同天皇は、条約を許可せざるをえないだろう、と。(太田)
・・・10月4日の夕方から小御所で開かれた朝議<では、慶喜の力説にもかかわらず、>・・・幕府を信頼する中川宮と二条といえども簡単には<条約承認を>認められなかった。
⇒誰かが、抵抗してくれないと孝明天皇の立場がなくなるので、忠煕が二条に言い含め、中川宮を巻き込んで抵抗役を演じさせた、と見るわけです。Y太田)
そこで在京の藩士たちを御所に集めて意見を聴取するという例外的措置が取られた。
近衛忠房は非蔵人口<(注50)>・・・に薩摩藩士を呼び、薩摩藩が外国と交渉するよう依頼した。
(注50)「御車寄の近くにある通用玄関」
https://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/22bousai.pdf
非蔵人とは、「江戸時代、賀茂・松尾・稲荷いなりなどの神職の家や家筋のよい家から選ばれ、無位無官で宮中の雑用を勤めた者。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9D%9E%E8%94%B5%E4%BA%BA-609402
・・・大久保利通は、公家を使節とし、薩摩藩士を随従させる案を立てた。
朝議では近衛と大久保の案を受け入れ、大原重徳を使節に任命することが決まった。
しかし、一橋慶喜や松平容保などが反対したため、この案は実現しなかった。・・・
<結局、>薩摩藩士らも開港を主張したため、天皇も涙ながらに勅許に踏み切ったという。
⇒大久保利通にまで出番が与えられたことからも、本件に近衛忠煕も関与していたことを示唆しています。(太田)
10月5日、天皇は幕府に兵庫開港を不可とし、条約文面の不都合な点をあらためることを命じたうえで安政の条約を許可(長崎・函館・横浜の開港許可)した。」(180~181)
(続く)