太田述正コラム#12698(2022.4.18)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その32)>(2022.7.11公開)
「・・・大原重徳と、幕府にどのようにして攘夷を実行させるかを相談していた<ところの、>・・・中御門経之<(コラム#12576)>・・・は、・・・岩倉具視<宛の>・・・1865<年>10月7日<の>・・・書翰<で>・・・「一橋慶喜と松平容保の心底は「禽獣」であり、皇国の基本もこれまで」と、嘆き悲しんだ。
そして「武力を持たない公家だけではどうしようもなく、早く一橋と容保の首が打たれることを祈る」と、怒りを隠せない。
さらに天皇が攘夷不可能という文書を出し、幕府の罪を朝廷が被るようなことがあってはならないという(同前)。
彼の討つべき対象は長州藩ではなく、攘夷を実現できない一橋と容保であった。
だからといって<、中御門の場合、>一足飛びに討幕、王政復古とはならない。・・・
⇒(私が、近衛忠煕らの走り使いと見ているところの、)岩倉具視が、それまでずっと行動を共にしてきた、というか、行動を共にさせてきた、ところの、自分の義兄・・実姉の夫・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E7%B5%8C%E4%B9%8B
である中御門経之に対してすら、ホンネ、というか、本当の話、を伝えていなかったことが分かる、と共に、当時の並み公卿が、いかに世情・・軍事などとあえて言う必要もないと思います・・に通じていなかったかも分かる、挿話です。(太田)
<これに対し、既に>9月末に岩倉具視は「復古一新」を考えるようにな<っていた>。・・・
それには国家の柱石となる薩摩藩と長州藩の存在が欠かせず、朝廷内にも有力な公家が必要となる。・・・
⇒岩倉が自分で「復古一新」の考えに到達したわけではなく、それまでと同様、近衛忠煕らの指示でそういうスタンスをとった、ということでしょう。(太田)
<すったもんだの末、>長州再征について将軍は天皇から許可を得たが、・・・大坂にいる老中板倉勝静と小笠原長行は<寛大処分、>・・・滞京の一会桑<は>・・・厳罰<処分、を、それぞれ主張した。>・・・
⇒慶喜としては、長州藩に処分を絶対に拒否させて再征を行い、それを幕府に失敗させることで幕府の権威を地に堕ちさせるのが狙いなので、厳罰処分を主張したのでしょうが、そんな慶喜に何の疑いもなく(幕閣の寛大処分案に反対して)追随した容保と定敬の兄弟には、ただただ呆れるほかありません。
当時の並み大名のアホさ加減は並み公卿の世情不通といい勝負、といったところでしょうか。(太田)
<結局、>長州藩<に対する>寛大処分が天皇に許可されたのと同じ頃、京都では薩摩藩と長州藩の間で薩長同盟が結ばれた。・・・
<そして、>薩摩藩は・・・長州再征は大義が立たないとの理由で参戦しない意向を示した。
このような状況変化から<、寛大処分であったにもかかわらず、>長州藩は・・・処分・・・に応じなかった。・・・
緊迫した情勢のなか、孝明天皇の浮世離れした行動が目立つようになる。
5月14日に中川宮朝彦親王は、関白二条斉敬から天皇が日々三度、四度の酒宴を開き、鳥類などを庭で鑑賞しているとの情報を得た。
同じような情報は中山忠能の耳にも入り、「禁中」での魚鳥の放生(ほうじょう)行事は時勢をわきまえない行為だと批判した。
さらに6月2日には、午後から雅楽の演奏が行われ、中川宮が笛、議奏広橋胤保が笙、綾小路有良(あやのこうじ「ありかず)が篳篥(ひちりき)<(注51)>を担当した。・・・
(注51)龍笛、笙、篳篥
https://www.gakki.com/shop3/ga_gakki.html
⇒孝明天皇の小人ぶりがよく分かります。(太田)
長州再征は6月7日に・・・はじまった。
しかし、幕府は大軍を率いて出兵したが、長州藩の軍勢に苦戦を強いられた。
敗色が濃くなるなか、7月20日に陣頭指揮を執る将軍家茂が大坂城で病死した(発表は8月20日)。
翌21日には後継者として一橋慶喜が候補に挙がり、22日に中川宮朝彦親王と関白二条斉敬は了承している。
慎重な慶喜は26日に徳川宗家の継承を認めたが、将軍職は引き受けなかった。・・・」(182~183、187、189)
⇒「家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行<が>江戸の異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
のは、容保・定敬兄弟同様、この2老中の籠絡にも慶喜が成功していたからこそですが、慶喜は、将軍が不在である以上は幕府もまた存在しない状態のまま、徳川宗家を立ち枯れさせていく、という、最も平和的な手段がとれないか、を考え巡らせ、それが不可能だ、という最終的結論を下すのに、将軍に就任した12月5日まで四カ月余を要した、ということでしょう。(太田)
(続く)