太田述正コラム#12610(2022.4.24)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その38)>(2022.7.17公開)

 「・・・二条はついに決断した。
 この日に長州藩の寛大処分と兵庫開港が許可された。
 翌日、この情報を小松帯刀からもたらされた薩摩藩では、将軍が天皇に兵庫開港の許可を迫ったとの批判が起こる。・・・

⇒本件の朝議の場面に島津久光も薩摩藩の藩士も居合わせないようにした上で、伝聞の形でこのような「批判」の声をあげる、というお芝居が、薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達によって演じられたわけです。
 これに続く、大政奉還と王政復古のくだりは省略します。(太田)

 公家たちが見た夢は、再び長崎以外の港を閉鎖し、平安時代の宮中儀礼を復活させることではなかったか。
 政治体制も名称だけの太政官制ではなく、機構の実態も古に戻すことを望んでいたのかもしれない。
 近世後期に戦国時代に絶えていた宮中儀礼を復活させたのが「朝権恢復へのかすかな光」・・・であったことからすると、王政復古に際して儀礼を全面的に復活させようと考えていたとしてもおかしくない。
 しかし、現実には王政復古によって復活した宮中儀礼をはじめ、維新前に行われてた宮中の年中行事はことごとく廃止された。

⇒「天皇は8世紀以降、19世紀に至るまで基本的には京都に御所を構え、8~13 世紀にかけては、そこから遠方の寺社などへの行幸が行われていたが、財政難や戦乱のために 14 世紀ごろには行われなくなり、以後は、京都近郊に限定して行幸は行われた1。さらに 17 世紀中葉になると、江戸幕府は天皇が自由に京都御所の外に出ることを制限するようになる。この点については、将軍に対抗しうる権威としての天皇の存在を隠すためとの説があるほか、在京幕府役人による行幸警固のための費用を削減する目的があったということもその理由として指摘されている。一方、譲位を行った上皇に関しては、京都近郊という範囲内では一定の制限はあるものの御幸という形で京都御所からの外出を行うことができた。言い換えれば、譲位せずに崩御した天皇については即位前の幼少期を除き、御所から外出できないまま死を迎えたことになる。また、こうした天皇・上皇が崩御した際の葬列は行幸・御幸の形式がとられた。天皇が在位のまま崩御した場合、葬送によって初めてその天皇は御所の外に出ることができた。」
https://www.let.osaka-u.ac.jp/ja/research/file/sato-kazuki
のが、改められた・・明治天皇は盛んに巡幸を行った(コラム#省略)・・といった具合に、「機構の実態<を>古に戻すこと」になったものは少なくないはずであり、刑部の筆致にはいささかひっかかるものがあります。(太田)

 明治5年(1872)12月に太陰暦から太陽暦に変わると、五節句の休日などもなくなってしまう。
 また公家特有の結髪をすることもなくなり、儀礼の場で衣冠束帯を用いることもできなくなる。
 嵯峨たちが「公事録」<(注69)>や『孝明天皇紀』<(注70)>の編纂に心血を注いだのには、本来の自分たちが夢見た王政復古とは違うものであったという想いがあったからだろう。

 (注69)「「公事録」「公事附録(公事録附図)」・・・は、明治20年代に、江戸時代後期の朝廷儀礼における手続きや作法を記録するために作成されたもので、明治天皇の祖父でもある中山忠能 (1809-1888) と柳原光愛 (1818-1885) の両名によって儀礼の次第・作法を記した「公事録」が作成され、次いで北小路随光 (1832-1916) 、樋口守保 (?-?) によって儀礼の様子が描かれた「公事附録」が作成された。」(上掲)
 (注70)宮内省先帝御事蹟取調掛 編(先帝御事蹟取調掛(明治39年))
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1244933
 『孝明天皇器 附図』は、「孝明天皇紀の絵図で、天皇御一生中の重要な宮中行事35の各場面を極彩色で描いた端麗な大和絵45枚で、明治39年の刊行、今回原図の半截、A3判で複製されたものである。絵には懇切な解説があり、殿舎の舗設、参仕者の位置、調度、服飾等を当時のままに描き、儀式の模様が一目で判り、有職故実の図としても価値が高い。」
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32871.html

 それは直接編纂に従事しなかった公家華族たちの想いとも重なっていたと考えられる。
 彼らにとって明治維新という「栄華の夢」は、皮肉なものであった。・・・
 歴史の流れは予定どおりに推移することよりも、予期せぬ事実の積み重ねによることのほうが多い。

⇒この場合「予定」したのは公家達ということなのでしょうが、刑部もひょっとしたら私同様、思想(観念)が歴史を動かす、と考えているのかもしれませんね。
 しかし、幕末/維新史に関しては、「公家」を、「五摂関家以外の公家達の多く」とでも言い換えないと「歴史の流れは<彼らの>予定どおりに推移」しなかった、とは言えません。(太田)

 その意味でいうと、公家たちが関与した王政復古という政治変革も例外ではなく、結果として思い描いていた理想とは違ったものとなってしまった。
 公家たちの多くが明治を迎えてから積極的に活躍しなくなるのは、彼らの理想と現実とに大きな矛盾が生じたからではなかったか。・・・」(223、289~290、292)

⇒ここも間違いで、私に言わせれば、公家達のうち、広義の五摂家の人々の多くは明治を迎えてからも積極的に活躍し続けるのです。(太田)

(完)