太田述正コラム#12714(2022.4.26)
<小泉達生『明治を創った男–西園寺公望が生きた時代』を読む(その2)>(2022.7.19公開)


[西園寺公望の母]

 「千世浦斐子(宇佐神宮の社家末弘氏の正親盛澄の娘、後に正心院)」
http://nihonnokakeizu.net/blog-entry-2355.html
としか分からなかった。
 しかし、宇佐神宮の社家に、末広氏、は登場しない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E6%B0%8F
 徳大寺公純には、「子には徳大寺実則(宮内大臣)、西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)、末弘威麿(財団法人立命館理事)、住友友純(15代住友吉左衛門)、中院通規、福子(加藤泰秋室)、永(相良頼基室)、中子(相良頼紹室)、照子(阿部正功室)らがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B4%94 前掲
とされているけれど、公望以外の誰が斐子の子なのかも定かではない。

 これは、かなり異常なことではないだろうか。

 「・・・パリに到着した1871年<、>・・・帝国主義が西欧だけにとどまらずに拡散することを西園寺は予想していた。<(注3)>

 (注3)「<公望の父の>徳大寺公純<は、>・・・明治以後も攘夷派公家としての矜持を保ち、京都に留まった。たとえ身内の者であっても洋装の客に対しては決して会おうとはしなかった。ただし、それはあくまでも自分自身の信念の問題であると考えていたらしく、息子・西園寺公望のフランス留学実現に陰で奔走したのは公純であったと言われている。」←無典拠 (上掲)

 なぜなら、植民地の奪い合いの根底には、人間の本性である、あくなき欲望が渦巻いているおとを感じていたからである。・・・

⇒秀吉流日蓮主義がどうして生まれたかを振り返れば、同主義を洋行までに(孝明天皇の近習の同僚であった岩倉具視(☆)等から)みっちり叩き込まれていたはずの公望が、「西欧」の「帝国主義」が、少なくとも16世紀に遡ること、そして早くも同世紀中に日本の周辺にまで「拡散」してきていたこと、を自覚していたはずであり、このような呑気な「予想」をフランス留学中にしたはずがありません。(太田)

 「自由・平等・言論の自由などの人権、という考え方があることを初めて知った。・・・」・・・

⇒果たしてそうでしょうか。
 「自由・独立・平等の、それまでの日本人が知らなかった3つの価値観が<日本を含む>新時代の社会を支配す<べき>ことを宣言」した福澤諭吉の『学問のすゝめ』が上梓されたのは、1872年(明治5年)であって
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AE%E3%81%99%E3%82%9D%E3%82%81
公望の洋行出発の翌年ですから、人権について、公望がフランスで初めて知ったという可能性も皆無ではないけれど、「軍人を志し、フランス留学を望んでいた・・・公望<は、・・・1869>年、・・・木戸孝允らのすすめで開成学校に入り、フランス語の勉強を始め<るとともに、>大村益次郎の薦めで<フランス等の>法制についても勉強するようになった」(☆)以上、彼は、その時点で既に知るところとなっていたはずですし、彼、そもそも諭吉の『西洋事情』を読んでいる(☆)ところ、秀吉流日蓮主義者であった諭吉に直接会って教えを乞うたこともあった可能性が高く、人権について諭吉から直接教示されていても不思議はありませんよ。(太田)

 <さて、ずっと時代を下って、1936年に>二・二六事件<が起きた。>
 西園寺公望暗殺が計画されていた。
 西園寺は今まで何度か軍部の標的とされてきた。

⇒陸軍と海軍がありましたし、陸軍の中だって皇道派、統制派、等がありました。
 「軍部」なんて大雑把な言葉を用いてはいけません。(太田)

 戦争のない世界協調の平和な世を目指す政策が、軍縮の推進であったり、軍事予算の削減だったりすることが目障りな存在と映るのであろう。」(38、40~41、113)

⇒そんなものは、公望らの世間、とりわけ英米を欺くための擬態に過ぎない、と、見るべきなのです。
 公望らの、昭和戦前期の秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者、達は、幕末において、父の出身の鷹司家が、その本家の近衛家を頭目とする五摂関家の一員として、薩摩藩を筆頭とする武家達中の秀吉流日蓮主義者達、と連携しつつ、攘夷・倒幕派の公家達や武家達を扇動し利用して開国・倒幕を成し遂げた先例に倣って、今度は、日本の安全保障に危機感を抱く、若手を中心とする軍人達を扇動し利用して日本を有事体制へと導き、世界の安全保障を達成するための対英米露戦争を始めようとしていた、というのが私の見方なのであって、公望らとしては、自分達の命の心配はしつつも、全般的にはコトがうまく進んでいる、と、ほくそ笑んでいた、と考えている次第です。(太田)

(続く)