太田述正コラム#12716(2022.4.27)
<小泉達生『明治を創った男–西園寺公望が生きた時代』を読む(その3)>(2022.7.20公開)

 「近衛文麿には特別に目をかけてきた。
 五摂家である近衛家と西園寺家とは公卿同士で代々懇意な家柄であった。

⇒明治以降の両家にはそれ以上の因縁がある、と、既に指摘したところです。(太田)

 近衛が京都帝大在学中には、すぐ隣にあった清風(せいふう)荘<(注4)>(別荘)に呼んでよく話も交わした。

 (注4)「清風荘の敷地には、江戸時代には徳大寺家の下屋敷「清風館」があった。1907年(明治40年)、この敷地は住友家15代当主の住友友純(15代吉左衛門、徳大寺公純の6男)に譲渡され、友純の実兄である西園寺公望の別邸として整備されることとなった。・・・小川治兵衛による日本庭園と「数寄屋造り」の主屋、茶室等の付属建物から成る。1944年に京都帝国大学へ寄贈され、2012年に主屋などの建造物12棟が重要文化財に指定された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E9%A2%A8%E8%8D%98

 卒業後は内務省入省に当たり、次官に紹介の手紙を書いて引き立ててもきた。

⇒「1917年<に>・・・内務省文書課の「雇」となった」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/23/0/23_0_181/pdf/-char/en ※ ということは、率直に言って高文試験に合格し、その中でも、大蔵省と並んで上澄みが入省した内務省に、この正規のルートで入る学力が文麿にはなかった、ということでしょう。  公望が、その筆頭課の官房文書課で勤務させたのは、山縣系官僚に位置づけられ、(アジア主義者的に)既に台湾総督民政長官、満鉄初代総裁を経験していたところの、時の内務大臣・後藤新平 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
の謦咳に(一応アジア主義者の)文麿を接させるのが目的だったのではないでしょうか。
 公望は、恐らくは、後藤に直接了解をとった上で、事務方がむくれないように、次官に書簡をしたためた、ということでしょうね。
 それでも、「近衛は、内務省に行ったものの、行政事務を担当したわけでなく、規則的な出勤の義務もなく、近衛自身の言い方では「しばらくブラくしてゐる」時期であった」(※)というのですから、事務方にとって、文麿はお荷物でしかなかったようです。(太田) 

 後見となって若き日より育ててきた近衛文麿は、首相だというのに軍部の言いなりになり、もはや私の声は届いていない。
 西欧列強との協調なくして日本の生存する道がないこと、天皇の召します国が弥栄であることへの信念、共に抱いた情熱はどこに消え去ってしまったのだ。・・・

⇒もうお分かりでしょうが、公望は、バカで主体性もないけれど、看板としてだけはうってつけの文麿を、(二度目と三度目は連続しているので、実質)二度も首相につけ・・唯一の元老になっていた公望が指名さえすれば文麿を首相にすることができたところ、近衛の二度目の首相就任(7月)の後(11月)に公望は亡くなっている・・、世界が「弥栄であることへの信念、・・・情熱」に溢れた貞明皇后指揮下の、これまた世界が「弥栄であることへの信念、・・・情熱」に溢れた杉山元、の傀儡首相として機能させたわけです。(太田)

 <西園寺が亡くなると、>昭和天皇のお悲しみは深く、最後の元老として西園寺の政治方針や人間性に深い信頼と親愛をおもちであっただけに、内・・・大臣の木戸孝一に対して思い出を語り始めて一時間経っても途切れることがなかったらしい。
 グルー米国大使は、大使館の星条旗を半旗にして弔電を売ってきた。
 「巨星墜つ」
 近衛文麿首相が葬儀委員長を務める「国葬」が、12月5日東京市の日比谷公園で弔砲の響く中、盛大に執り行われ、寒中にもかかわらず数万人の参列者があった。」(123~125、128)

⇒文麿のみならず、昭和天皇もグルー(米国)も、完璧なまでに公望に騙されていたわけです。(太田)

(続く)