太田述正コラム#12720(2022.4.29)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その1)>(2022.7.22公開)
1 始めに
次いで、表記のシリーズです。
なお、著者の永井和は、既に(コラム#12540で)紹介済みです。
2 『西園寺公望–政党政治の元老』を読む
「・・・元老松方正義は、1924(大正13)年7月2日・・・息を引きとった。・・・
二年前の1922(大正11)年2月には、長州・・・出身の元老<(注1)>山県有朋が亡くなっており、今また松方がそのあとを追った。
(注1)「旧憲法時代,日本政界の最上層にあって天皇を補佐し,・・・国家の重要政策の決定や首相選任にあたった・・・政治家<のこと>。法的規定はないが,明治天皇から〈元勲優遇〉の詔勅を受けたか,あるいはこれに準ずる者・・<具体的には、>1889年(明治22)黒田清隆が首相を辞任し、伊藤博文が枢密院議長を辞任するに際して、明治天皇から「元勲優遇」の詔勅を受けた。これが元勲としての身分を特定し、以後、98年に松方正義が首相辞任に際して同様な詔勅を受けるが、この間に井上馨、西郷従道、大山巌らも同様な待遇を受けた。・・で,天皇が代わると新たに〈卿(けい)ノ匡輔(きょうほ)ニ須(ま)ツ〉との詔勅が出た。薩長藩閥政治の長老がほとんどで,御前会議や閣議に参加し,その権勢を背景に政変の際の後継内閣の首班を決定する事実上の権限を握っていた。伊藤博文,黒田清隆,山県有朋,松方正義,井上馨,西郷従道,大山巌,桂太郎,西園寺公望の9人が元老と呼ばれる。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E8%80%81-61178
「明治25年(1892年)7月に松方内閣が倒れると天皇から善後処置を伊藤や黒田清隆とともに下問された。これ以降、天皇が後継首相を重臣に下問する慣例が始まり、後に元老と呼ばれる制度となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
⇒「注1」の前段は山縣が元首になった経緯が登場しませんし、前者と後段とでは、元老「制度」の起源が異なっています!(太田)
松方の死により、大正天皇が即位した際に、いわゆる「至尊匡輔(しそんきょうほ)の勅語」<(注2)>をあたえられて大正天皇の元老となった5人(山縣・松方・井上馨・大山巌・桂太郎)に、遅れて類似の勅語を受けた西園寺と大隈重信をあわせた7人のうちこれで6人が他界したことになり、残るは西園寺1人のみとなった。
(注2)「永井和は天皇が「至尊匡輔の勅語」 を授けることが元老になる要件であるとしている。しかし主立った元老は勅語を受ける以前から元老としての活動を行っており、受けた詔勅も共通したものではない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81
⇒「注1」と「注2」から分かるように、元老の定義は曖昧模糊としているところ、永井による元老の定義が厳密さを欠いていて、混迷を更に深める結果になっているのは残念です。(太田)
文字どおり「最後の元老」となったのだ。・・・」(1~2)
⇒「元老<の>・・・なかでも、伊藤<博文と>山県有朋の発言力は大きく、松方、井上は財界への影響力を行使して財政・経済面で手腕を振るった。1901年(明治34)<に>桂太郎が首相に就任して以後は、元老自ら政権を担当することなく、日英同盟締結や日露戦争時にはその指導力を発揮し、日露戦争後の桂園時代にも、政権の外にあって影響力を行使した。09年伊藤の死後は山県の発言力が絶大となり、明治末年に桂太郎が、大正初めに西園寺公望が新たに元老に加わった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E8%80%81-61178 前掲
というのですから、桂、次いで公望、を元老に加えたのは、(それぞれ、明治天皇、と、大正天皇、の了解は取り付けつけたでしょうが、)事実上山縣だったということになります。
その山縣は、西園寺を最後に元老は自然消滅に任せ、亡くなる際には、後の昭和天皇の摂政宮時代であったところ、この摂政宮、と、事実上の天皇であった貞明皇后、に対して、この自然消滅方針を遺言した、と、私は想像しています。
更に言えば、摂政宮に対しては、今後は、内閣制度をとっている英国等に倣って、「国家の重要政策の決定」は内閣に任せ、また、「首相選任」は憲政の常道に委ね、ることを目指すべきである、と説明し、貞明皇后に対しては、秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス完遂の時期が近付いているので、秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者以外の者を「国家の重要政策の決定」ないし「首相選任」、とりわけ後者に容喙させないため、松方と公望でもって元老は打ち止めとし、松方と公望がいなくなった後は、彼らのうち残った1人が指名することとする内大臣1人に、その後は現任の内大臣が指名する後任の内大臣に、委ねることとすべきである、と説明し、それぞれの了解を得たのではないか、とも。(太田)
(続く)