太田述正コラム#1600(2006.12.31)
<日本・米国・戦争(その4)>
(本扁は、コラム#1544の続きであり、情報屋台(
http://www.johoyatai.com
のコラムを兼ねています。)
(3)幕末の日本
私はこの10年来、日本の論壇を全くフォローしていないのですが、数学者の藤原正彦氏の「国家の品格」という本が200万部も売れた大ベストセラーになっているようですね。
米クリスチャンサイエンスモニター紙は、同氏が、西洋の自由と平等という理念は日本にはなじまないとか、元ライブドアのホリエモンは、武士道精神を忘れてしまって米国人のように何でもカネで買えると思っているとか、日本の武士道精神や伝統的美意識が失われたのは戦後の米国による占領及びその後遺症のせいであるといった指摘を行い、日本人が米国人の奴隷であり続けることを止めて武士道精神等を取り戻せば、世界を救うことに貢献できると主張している、とした上で、同氏の主張は、最近の日本において復活しつつあるナショナリズムの風潮の中では穏健な方だ、と記しています(
http://www.csmonitor.com/2006/1204/p07s02-woap.html
(12月4日アクセス)、及び
http://www.csmonitor.com/2006/1228/p01s03-woap.html
(12月29日アクセス)による)。
本当に藤原氏がこのような主張をされていて、それが現在の日本で受けているのだとすれば、まことになげかわしいことです。
どうしてか、ご説明しましょう。
私はかねてより、アングロサクソン世界や西欧世界は存在しているけれど、この二つの世界を包含する「西洋」なるものは存在せず、かつ米国社会は西欧的要素が一部混淆したアングロサクソン社会であると考えているのですが、「西洋」なるものが存在すると仮定した場合、キリスト教は「西洋」の重要な属性の一つということになろうかと思います。
さて、武士道を「西洋」に紹介した著名な本である「武士道」(原文は英文)を書いた新渡戸稲造は敬虔なキリスト教徒でしたし、このところ、藤原氏以上に、武士道の復興を日本人に説いている、前台湾総統の李登輝もまた敬虔なキリスト教徒です。
(私は新渡戸や李登輝の武士道理解はいささかキリスト教的歪曲が見られると思っているのですが、それはともかくとして、)これは、武士道精神とキリスト教精神、ひいては(米国をその中に含むところの)「西洋」の精神、とは、厳しい自己規律・高い倫理観念・公益への奉仕、といった点で互いに相通ずるところが多いからでしょう。
つまり、藤原氏のように、武士道精神と米国の精神とを対置させるのはおかしい、ということです。
ここから、「何でもカネで買えると思」うことは武士道精神に背馳する以上、「米国人」が「何でもカネで買えると思っている」という藤原氏の指摘は誤りだ、ということにもなるはずです。
いや、こんなことは理屈ではなく、在米経験があればすぐ分かることです。藤原氏は在米経験が長いと承知していますが、恐らく当時氏は数学の研究に専念されておられて周りが全く見えていなかった、ということなのでしょう。
一番ひどいのは、「西洋の自由と平等という理念は日本にはなじまない」という藤原氏の指摘です。
こういった指摘が完全な誤りであることは、幕末の日本を見聞した「西洋」の人々の証言(太田述正コラム#1503)から明らかです。
・・自由について・・
「米人宣教師マクガワン<いわく、>日本は専制政治に対する世界最良の弁明を提供している。政府は全知であり、その結果強力で安定している。その束縛は絶対であり、あらゆる面をひとしく圧している。しかるに、社会はその存在をほとんど意識していない」(渡辺京二著の「逝きし世の面影」平凡社ライブラリー 263頁)、
「<駐日英国公使の>オールコック<いわく、>形式的外見的には一般民衆の自由があって民主的な制度をより多くもっている多くの国々以上に、日本の町や田舎の労働者は多くの自由をもち、個人的に不法な仕打ちをうけることがなく、この国の主権をにぎる人びとによってことごとに干渉する立法を押しつけられることもすくないのかも知れない」(263頁)、
「オランダ海軍<の>カッテンディーケ<いわく、>日本政府は民衆に対してあまり権力を持っていない・・プロシャ使節団のヴェルナー<いわく、>幕府・・は・・土地を・・強制収用する立場にはなかった。」(15頁、264??265頁)、
「オーストリアの外交官ヒューブナー<いわく、>ヨーロッパにもこれほど自由な村組織の例はない」(75頁、275頁)、
・・平等について・・
「<米国人>モース<いわく、>都市にあっては、富裕階級の居住する区域は、わがアメリカにおけるほどには明確なる一線を画してはいない。」(126頁)、「貧民ですら衣服も住居も清潔な日本」(135頁)、
「<英国人>ジャパノロジストのチェンバレン<いわく、>「この国のあらゆる社会階級は、社会的には比較的平等である・・一般に日本人・・は、大西洋の両側のアングロサクソンよりも根底においては民主的である。・・金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。・・ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透している・・」」(10頁、129頁)、
「フランス海軍の一員・・スエンソン<いわく、>日本人は身分の高い人物の前に出た時でさえめったに物怖じすることのない国民<だ>。・・主人と召使いの間には、通常、友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあってはまず未知の関係といってよい」(278??279頁)、
注意すべきは、西欧人による証言は、当時の西欧よりも自由で平等であった日本に対する賛嘆の言葉であったのに対し、英米人(アングロサクソン)による証言は、日本と英米の類似性に瞠目した言葉であったという微妙な違いがあることです(太田述正コラム#1506)。
このことの根拠を一つだけ挙げておきましょう。
130年前、(当時の日本政府全体が外遊した観があった)岩倉大使節団がロンドンに到着する前日、英タイムス紙(1872年8月20付)はこの使節団について長文の記事を掲載し、日本を東の英国であるとし、その日本と英国との類似点の一つとして、「社会・政治の基本構造(edifice)の安定を揺り動かすことなく、最も抜本的な革命を発動(affect)することを知っている」点をあげた(在日英国商業会議所発行の雑誌、BCCJ Insight, Volume 9 Number 6, November/December 2002, pp5 より孫引き。太田述正コラム#84)ことです。
以上から、アングロサクソン文明と日本文明は、昔から自由と平等といった理念を共有するところの、世界中で最も似通った二つの文明である、ということをご理解いただけたのではないでしょうか。
(続く)