太田述正コラム#12726(2022.5.2)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その4)>(2022.7.25公開)
「ここで清浦と牧野が選考に関与したことが、次の加藤友三郎内閣の成立の際に松方と牧野がとった行動の伏線となるのである。
1922(大正11)年6月に高橋内閣は総辞職し、加藤友三郎内閣が成立した。・・・
この内閣交代は摂政政治が始まって最初の政変ということになる。
同年6月6日に高橋是清が内閣総辞職を申し出ると、・・・内大臣松方の求めによ<り、>・・・摂政は宮内大臣の牧野を召して、その処置を尋ねた。
それに対して牧野は、元老に御下問の手続きをとられるようにと進言した。
・・・この時点で山県は死去しており、残る元老は内大臣松方と西園寺のみである。
翌日摂政に拝謁した松方は、清浦圭吾子爵・山本権兵衛伯爵らとも相談のうえ、後継首相の候補者をお答え申し上げますと述べた。
山県のあとを受けて同年2月に枢密院議長に承認していた清浦と元首相で海軍大将の山本を選考の協議に加える許可を、松方は摂政からえたのである。・・・
この松方の申し出は、いずれも元老ではない枢密院議長と元首相を協議に加えることを提案した点で前例がな<かった。>・・・
さらに注目すべきは、松方のこの提案が、あらかじめ牧野と打ち合わせ済みだった点である。・・・
松方と牧野のねらいは、この2人、とくに同じ薩摩出身の山本の準元老化にあった。
・・・ゆくゆくは元老とする布石をここで打とうとしたのである。・・・
<なお、>宮内大臣である牧野・・・のこのような関与は「宮中・府中の別」<(注6)>・・皇室にかかわる天皇大権の行使を、内閣には属さない宮内大臣の輔弼事項とした制度<であり、>逆に宮内大臣や内大臣は内閣の専管事項には口出しできないとされた・・を乱すとの非難を呼び起こす恐れがあるが、はじめての政変を経験する若き摂政を導くために、この頃の牧野は、清浦枢密院議長の協力をえて、老齢の内大臣松方の仕事の一部を肩代わりしていたのであった。」(18~20)
(注6)「1879年に伊藤博文らは,宮中・府中の別を乱すという理由で,77年より宮内省に設けられた天皇側近の職である侍補等を廃止したり,あるいは参議が宮内卿を兼任しないという原則が主張されたりした。85年の太政官制の廃止,内閣制の創設は,制度的に宮中・府中の別を明確にし,宮内大臣は内閣の外にあるものとされた。しかし,同時に設置された宮中官としての内大臣は,天皇を常時輔弼(ほひつ)する立場から,ときに国政に関与することもあ<った。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3-484492
「明治政府下における内大臣は、親任官である宮内大臣・侍従長とともに、常に天皇の側にあって補佐(常侍輔弼)する官職であった。具体的には、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他宮廷の文書に関する事務などを所管した。また、国民より天皇に奉呈する請願を取り継ぎ、聖旨に従ってこれを処理するなど、側近としても重要な役割を果たした。
その職務や権限、天皇に助言できる範囲は、憲法学者ですら明確に定義することができないほど、非常に曖昧かつ抽象的であった。全ては天皇と就任した人物との信頼関係のみで成立するという、特殊な官職でもあった。これは当初、太政大臣を退く三条実美を処遇する名誉職としての意味合いが強かったことによる(事実、当時の宮中席次では内閣総理大臣より内大臣が上席とされた)。・・・。 三条は伊藤博文に道を譲る形で宮中入りし、黒田清隆辞任後には暫定的ながら内閣総理大臣を兼任した。三条の死後は、侍従長徳大寺実則が明治天皇の崩御まで内大臣を兼務した。
若年の大正天皇の即位により、その補佐は重要課題となり、総理経験者である桂太郎が内大臣兼侍従長として宮中入りする。桂が短期間で総理に復帰すると、今度は皇族である伏見宮貞愛親王が内大臣府出仕の資格で、数年にわたって執務した。その後は元老・準元老級の政治家が、藩閥の勢力拡大や政局の思惑とも連動しながら起用された。また職務形態も常侍輔弼から、必要に応じて宮中に出仕する形態へと変わった。
さらに昭和期になると、宮内大臣から横滑りした牧野伸顕や湯浅倉平、宗秩寮総裁・内大臣秘書官長を務めた木戸幸一のように、宮務経験を経た官僚出身者の登用が目立った。さらに元老の存在感が薄くなるにつれ、元老に代わって重臣会議を主宰する形で後継首班奏薦(内閣総理大臣辞任後の後任の指名)の中心的存在となった。重臣との折衝や意見聴取を行い、さらに軍の統帥事項に関しても天皇を通して情報を得られる立場であった内大臣は、宮中のみならず府中(政府内・政局)にも影響力を及ぼし得る重職となった。・・・
内大臣・・・の職掌を司る部局として、宮内省に内大臣官房、のちの内大臣府が<置か>れた。・・・
内大臣府は宮内省の外局であった。・・・
1907年、内大臣府官制制定以降の内大臣府は、計11人という少数の職員によって構成されていた。廃止されるまで、以下のような人員構成で職務を行った。
・内大臣 内大臣府を統轄し、天皇に従い責任を負う。1人、親任官。
万が一、内大臣が欠けた場合、枢密院議長が臨時代理となり、天皇に侍立した(例:濱尾新・一木喜徳郎)。ただし、大山巌が在任中に死去した後の松方正義の就任時にはこの扱いはなされていない(当時の枢密院議長は山県有朋)。
・秘書官長 宮内の文書を掌理する。天皇と内大臣との連絡役でもあり、時として内大臣より重要な役割を果たした。1人、勅任官。
・秘書官 文書の管理や庶務を分掌する。3人、奏任官。
・属 庶務を担当する。6人、判任官。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3%E5%BA%9C
⇒「宮中・府中の別」の定義らしいものどころか、「宮中」「府中」それぞれについての簡潔な説明すら、ネット上ですぐには発見できず、困ったのですが、仮に永井自身による定義がそれなりに根拠のあるものだったとして、私は、「皇室にかかわる天皇大権」の「皇室にかかわる」を除去した方がよいと思いました。
つまり、私は、統帥大権及び外交大権の行使について、天皇を輔弼するためにこそ内大臣は置かれた、と考えるに至っているのです。
更に踏み込んで言えば、秀吉流日蓮主義者になることがなかったところの明治天皇に、いざという時には事実上代わって、秀吉流日蓮手の完遂を「府中」のしかるべき者に命じるという、(近衛忠煕(~1898年)/山縣有朋(~1922年)から与えられた)口伝の任務を担っていた、と。
遺憾にも、大正天皇も、また、摂政時代を含め、昭和天皇もまた、やはり、秀吉流日蓮主義者になることがなかったところ、昭和天皇の時の1931年についに完遂の時節が到来した際、(貞明皇后の了解を得て)当時の内大臣の牧野伸顕は、当時陸軍省軍務局長だった杉山元に、完遂せよと命令を下した、とも。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95 ←牧野
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 ←杉山
なお、牧野は、西園寺によって、最初から、内大臣含みで宮中に送り込まれたものであり、宮内大臣よりも内大臣の方が格上であることから、対世間的に激変緩和措置として、(秀吉流日蓮主義者である高齢の)松方に一旦内大臣を引き受けてもらっていただけだ、と見ています。(太田)
(続く)