太田述正コラム#12738(2022.5.8)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その10)>(2022.7.31公開)
「「牧野日記」によれば、牧野が西園寺からこの問題について明示的に話を聞かされたのは、内大臣就任後一年半もたった、1926(昭和元)年10月28日がはじめてであった。
この時、西園寺は牧野に次のように語った。
先日摂政殿下に拝謁した際に次のことを申し上げた。
西園寺も歳をとって老衰しつつあり、将来のことが心配ですので、今後政変等で後継首相の選定の場合には、元老だけでなく内大臣にも御下問あるようにいたしたく思います。
また西園寺が死んだ後は、主として内大臣に御下問されるようにお願いいたします。
もし、内大臣が候補者選考の参考とするために、誰かに相談し、その意見を求めたいと思った時には、そのことにつき内大臣から摂政に願い出て、そのお許しを得たうえで、それらの人々と協議するようにいたしたく思います。・・・
⇒実際のところは、西園寺と牧野が話し合って、そういう記述を牧野の日記にすることにした、というところでしょう。(太田)
侍従武官長奈良武次<(注14)>の日記には、西園寺が10月14日に摂政に拝謁し、摂政の職務について意見を申し上げたとあるので、西園寺が摂政に後継首相の選考方式について奏上したのは、10月14日だったと思われる。・・・」(68~69)
(注14)1868~1962年。「農民・・・の次男として下野国都賀郡上南摩村(現・栃木県鹿沼市)に生れる。・・・明治22年(1889年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、・・・日清戦争では、臨時徒歩砲兵第2大隊副官として出征した。・・・明治32年(1899年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業した。参謀本部出仕(第3部)、陸軍省軍務局課員、・・・ドイツ駐在などを歴任。
日露戦争では、第3軍攻城砲兵司令部員として出征し、独立重砲兵旅団司令部員となった。日露戦後は軍務局課員(軍事課)、ドイツ駐在、軍務局砲兵課長、陸軍省(上原勇作陸軍大臣)副官などを経て、大正3年(1914年)8月、陸軍少将に進級。・・・支那駐屯軍司令官、青島守備軍参謀長、軍務局長を歴任。大正7年(1918年)7月、陸軍中将となり、第一次世界大戦講和会議に陸軍委員として派遣された。さらに、東宮武官、侍従武官<を経て、>・・・1920年7月16日<から>1933年4月6日<までの間、>・・・東宮武官長、侍従武官長を歴任。大正13年(1924年)8月、陸軍大将となり、昭和8年(1933年)4月、男爵の位を叙爵し華族となり後備役に編入。1939年(昭和14年)4月1日に退役した。
侍従武官長時代<には、>満洲事変後、国連の中で未だ満州に関する処理で話し合いが続けられている最中にも関わらず関東軍が<支那>と旧満州の境に兵を進める・・・熱河作戦について国際連盟の反応を懸念してこれを中止したいと考える昭和天皇が「統帥権最高命令によって作戦発動を中止せしめ得ざるや」と作戦の中止を奈良に打診した際、奈良は「それは閑院宮・陸軍参謀総長がいらしてからに」とこれを受け流した。しかし昭和天皇は尚、諦めず「さっき聞いたことについてはどうだ」と側近に書かせた手紙を奈良に送ったが、奈良は参内せず「天皇のご命令をもって作戦を中止しようとすれば紛擾を惹起し政変の原因になるかもしれず」と手紙で返答している。熱河作戦を天皇が強権を以って止めれば陸軍によって首相が殺され五・一五事件と同じような事態が起こる可能性を示して昭和天皇を脅迫し、統帥最高命令による作戦中止命令の発動を阻止することに成功した。
奈良はその以前からも関東軍の独断専行を懸念、これを制限したいという昭和天皇の意向を拒絶したり、上海からの陸軍撤退の下問を受け流す等、世論の陸軍支持の流れを重視し、天皇の国際協調・穏健路線を否定・非難する立場から度々天皇の打診を拒否して陸軍および陸軍参謀本部の判断と行動に関する昭和天皇の干渉を遮った。
侍従武官長勇退の際には後任に満州事変勃発時の関東軍最高司令官であった本庄繁を推薦している。昭和天皇は本庄がかつて「満州事変は関東軍による謀略と聞くがどうか?」との自分の質問に対して「断じて軍の謀略ではありません」と答えたことに根ざした不信感から本庄の侍従武官長就任を何度も拒否したが、奈良は天皇の意向を無視して本庄を着任させている。
退役後は大日本武徳会会長、枢密顧問官、軍人援護会会長を歴任し、昭和21年(1946年)8月、公職追放となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%AD%A6%E6%AC%A1
⇒1919年のパリ講和会議に奈良を派遣したのは、(恐らく山縣有朋(~1922年)とも調整上でしょうが、)時の陸相の田中義一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
であり、その最大の目的は、現地での西園寺及び牧野の2人と親密な関係を築いた上での秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの完遂計画のあらあらの擦り合わせでしょう。
その折、既に(翌年国際連盟空軍代表随員としてジュネーブに派遣される)杉山元の名前が出ていたとしても私は驚きません。
その直後の1920年に、奈良は宮中に送り込まれ、同年中に、その翌年あたりに摂政になる予定だった裕仁皇太子の東宮武官長となり、その後、翌1921年の11月25日に皇太子が摂政になり、1926年の12月25日に天皇になったことにともない侍従武官長になり、侍従武官長を退く1933年4月まで、通算、11年半もの長期間、彼は日本の元首の侍従武官長を務め、杉山構想が実施に移されるや、摂政/天皇の統帥大権の行使を脅迫も厭わず妨害するという、天皇機関説に照らしてさえ憲法違反の可能性があった行為を繰り返すわけです。
満州事変勃発後の1931年12月23日に、(当然のことながら、貞明皇后、西園寺、牧野、そして杉山らの間で話し合われた上なのでしょうが、)参謀総長に閑院宮を迎えたのは、杉山構想が実施される過程で昭和天皇がそれ以上の実施を拒否しようとした時に、侍従武官長一人で対処するのが困難になる場合が想定され、その場合、参謀総長に対処してもらう、ということも、その目的の一つだったに違いありません。(太田)
(続く)