太田述正コラム#1621(2007.1.16)
<戦前の米国の対英戦争計画>
(本扁は、事実上コラム#1614の続きであり、情報屋台(
http://www.johoyatai.com
)のコラムを兼ねています。)
1 始めに
戦前の米国で、絶対にありえないというのに対英戦争を想定したレッド計画(Plan Red)が作られていたことからして、戦前の米国で対日戦争を想定したオレンジ計画(Plan Orange)(日本・米国・戦争(その6))が早くから作られていたことを問題視するのはおかしい、という趣旨の指摘が読者からありました。
この指摘の前段は誤りです。
レッド計画は、当時の米国にとって最も重要な作戦計画であったのです。
そうである以上、オレンジ計画だって、それに準ずる重要な作戦計画であったはずだ、と考えるのが自然でしょう。
本篇は、このレッド計画がいかなるものであったかをご説明しよう、というものです。
(以下、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/12/29/AR2005122901412_pf.html、
http://www.shunpiking.com/ol0309/0309-WD-UswarplanRED.htm、
http://lefarkins.blogspot.com/2005/12/war-plan-red.html、
http://www.glasnost.de/hist/usa/1935invasion.html、
http://www.ihr.org/jhr/v12/v12p121_HNAC.html、
http://www.lewrockwell.com/floyd/floyd42.html、
http://thoughthammer.com/product_info.php?products_id=1787、
http://en.wikipedia.org/wiki/War_Plan_Red
(いずれも1月16日アクセス)による。なお、最後から二番目の典拠は信頼性に若干疑問があるので、これに拠った箇所は≪≫に入れた。)
2 レッド計画策定の背景
米国は、独立戦争と1812年の米英戦争と2回にわたって英国と戦争を行っています。
その後も米国は米墨戦争、米西戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦等、おびただしい数の戦争を行っていますが、米国が負ける可能性があった戦争は2回行った英国との戦争だけです。
しかも、英国は、カナダが独立するまで米国と長い国境を挟んだ隣国であったのですから、英国が米国にとって最大の脅威であり続けたのは当然のことだったのです。
この脅威の解消を図るため、米国は何度もカナダの併合を試みてきました(注1)。
(注1)米国人の多くは独立戦争の時に英本国側に与したカナダ人を快く思っていない。同じアングロサクソンとは言っても、米国人が自由や幸福志向で政府を信用しないのに対し、カナダ人は平和や秩序志向で政府に信頼感を抱いている、といった違いがある。
独立戦争の時には現在のメイン州からカナダに米軍部隊(独立派)が侵攻作戦を敢行しますが失敗に終わります。
また、米英戦争の真のねらいはカナダ併合であったという説もありますが、当時、米軍部隊は何度かカナダ侵攻作戦を敢行するも、その都度反撃にあって撤退せざるをえませんでした。
ですから、1823年のモンロー宣言を、カナダの人々は米国のカナダへの強い関心を示したもの、と受け止めました。
19世紀末からは米国の帝国主義的傾向が一層顕著になり、カナダの人々は強い危機意識を抱くようになります。
第一次世界大戦(1914??18年)に日本は英国との同盟国として参戦しましたが、米国は勝手連的(associated power)に参戦したに過ぎず、日英両海軍の連携は極めて密接であったのに対し、米海軍内では、戦争の間中、英海軍への猜疑心がわだかまり続けました。例えば、≪英国は米国に対し、駆逐艦や商船の建造を勧めたのですが、米国は英国が自分達の海軍力の強化を望んでいないからだと勘ぐり、あえて戦艦の建造に努めました。≫
合計すれば海軍力において米国を上回るところの日英同盟で結ばれた日英両国は米国にしてみれば重大な脅威であり、第一次世界大戦後、米国は日英同盟の解消に精力を傾けます。
後にレッド計画に発展するところの、≪この頃の米国の対英作戦計画には、しばしば英国が米国との人種的紐帯を裏切って日本と同盟しているという文言が登場するほどです。≫
そして、1921年から1922年にかけてのワシントン会議において、日米英仏の4カ国条約と日米英仏伊5カ国の海軍軍縮条約が締結され、満期を迎えた日英条約は更新されず、かつ日英の海軍力の増大は抑制されることとなり、米国は目的を達成するのです。
英国が、米国に屈したのには二つ理由がありました。
一つは、当時まだ英国の植民地であった豪州とカナダが日英同盟の継続に消極的であったことです。
豪州は日本の太平洋での伸張を快く思っていませんでしたし、カナダは日英同盟で海軍力において米国に対する優位を維持したところで、その程度の優位では米陸軍の侵攻を持ちこたえるために必要十分な英本国軍の来援・補給海上輸送路を確保することは困難であることから、日英同盟は無用の長物であると感じていたのです。
もう一つは、英国が、建艦競争をしたところで、米国の海軍力が早晩、日英両国を合わせた海軍力を凌駕することは、その経済・財政力からみて避けられない、と判断したことです。
3 レッド計画について
(1)カナダ側の危機意識
その米国が1921年には英国を抜いてカナダからの最大の輸入国になり、その翌年には米国のカナダ投資額が英国による投資額を抜きました。
そして1924年には、米商務省が「経済的かつ社会的にカナダは米国の北方の延長とみなしうる」という報告書を出すに至ります。
以上のような歴史的背景の下、早晩米国によるカナダ侵攻が避けられないと判断したカナダ(英国)は先手をうちます。
1921年に、カナダ軍の作戦・情報部長のブラウン(James Sutherland Brown)は、カナダ侵攻の兆候があったら対米先制攻撃を行った上で、橋や道路を破壊しつつ次第に撤退し、英本国軍来援までの時間稼ぎをする、という作戦計画、Defence Scheme No. 1を策定するのです。
(2)レッド計画の策定と「実施」
対する米国は、1920年代末に、本格的に対日作戦計画(オレンジ計画)、対墨作戦計画(グリーン計画)、及び対英作戦計画(レッド計画)の策定に着手します(注2)。
(注2)カナダは(やや紫がかった)深紅(Crimson。クリムソン)、豪州は緋色(Scarlet。スカーレット)、ニュージーランドは石榴色(Garnet。ガーネット)、インドは紅玉色(Ruby。ルビー)、ドイツは黒(Black。ブラック)、米国は青(Blue。ブルー)という符号で呼ばれた。
ドイツが主敵であった第一次世界大戦が終わってからそれほど時間が経っていないというのに、ドイツに対する作戦計画は策定されませんでした。しかも、ナチスドイツが台頭しても作戦計画は策定されないままだったのです。
当時の米国はドイツを「友邦」と見ていたということになります。
それに対し、当時の米国にとって主要な潜在敵国は日・墨・英(加)の三カ国であったことが分かります。
この三カ国の中でも、潜在敵国の筆頭と認識されていたのは英国(カナダ)でした。
レッド計画はフーバー(Herbert Hoover)大統領の時の1930年に策定が完了し、ローズベルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領の時の1934年と1935年に改訂されます。
1934年の改訂は、カナダの人々に対して化学兵器を先制使用することとカナダのハリファックス市の占領に失敗した場合に同市に戦略爆撃を行って破壊することを認めたものです。
レッド計画は、英国との戦争は、英国人が冷静で最後まで戦い抜く傾向があり、かつ、英軍は英国の植民地の有色人兵力による増強が見込めることから、長期戦になると見ていました。
具体的な作戦は、英・豪・ニュージーランド・インド軍によってフィリピンとグアムが占領されるのは甘受する代わりに、米国はカナダに侵攻するとともに、カリブ海における英国の全植民地に海空からの攻撃を加え、そのうちのいくつかの島は占領する、というものでした。
また、作戦開始と同時に、米国内の英国人やカナダ人は強制収容所送りにする計画でした。
そして、万一米国が敗れるようなことがあれば、アラスカを失うであろう一方、米国勝利の暁には、英領のカナダとジャマイカ・バルバドス・バミューダを米国は併合するとともに大英帝国を解体するつもりでした。
≪もっとも、米国の武器製造能力、特に艦艇の製造能力は英国のそれを上回っているので、戦争が長引けば米国は必ず勝利すると見込んでいました。≫
1935年には、レッド計画に基づく作戦準備が開始されます。
まず、カナダとの国境付近に、5,700万米ドルの予算で民間空港に偽装した航空基地の建設が始まります。カナダの航空基地にここから飛び立った軍用機で先制奇襲攻撃をかけるためです。
この件の議会での秘密聴聞会でのやりとりが漏れてカナダ政府が抗議するという騒ぎが当時起こっています。
更に同年、米軍は、史上最大規模の軍事演習をカナダ国境付近で行うのです。
すなわち、オタワの国境を挟んだ南方に36,000人の兵力を終結させ、ペンシルバニア州に15,000人の予備兵力を控置させたのです。
このレッド計画が無効とされたのは、日独伊の枢軸国に対する、オレンジ計画を発展させたレインボー計画が策定された1939年になってからです。
(3)レッド計画の背後の戦略
一体全体、どうして当時の米国は本来的友邦であるはずの日本や英国を敵視し、本来的敵国であるはずのドイツを友邦視していたのでしょうか。
米国はドイツの力を見切っていた一方で、世界の覇権を争っていた日本と英国を米国に従属化させるとともに、カナダとメキシコの資源を確保する(注3)という戦略を追求していた、と考えるのが自然です。
(注3)対墨作戦計画であるグリーン計画は、米国に逆らう非友好的な政府がメキシコに出現したという前提の下に、まず経済制裁を行い、次いで口実を設けて「防衛的」軍事介入を行い、首都のメキシコシティーを占領したら体制変革を実現し、協力的な政府を樹立し、石油産地周辺に米軍の恒久基地を設ける一方でメキシコの新国軍を整備する、という内容だった。このところ、米国がイラクに対してとってきた措置と生き写しであることに注意。
4 エピローグ
(1)成就したレッド計画
オレンジ計画は、そのかなりの部分が直接対日戦争に生かされ、米国は東アジアで覇権を争っていた日本に勝利し、日本を米国の保護国に転落させます。
一方、レッド計画の方は、戦争以外の手段で成就することになります。
先の大戦で疲弊し、帝国が瓦解するに至った英国は、戦後、米国の経済的軍事的策動もあって、事実上米国への臣従国家に転落してしまうからです。
またカナダは、1940年にはその防衛が米国の管轄下に置かれ、翌1941年には両国の軍事生産が事実上統合され、これが戦後のNATOや米加共同のNORAD、更には現在の北方司令部(Northern Command)へとつながっていくのです。
そして、カナダとメキシコは政治的・経済的・文化的に米国に吸収されつつあります。
2005年の北米安全協力協定(the Security and Partnership for North America agreement)の米加墨三カ国による締結は、その象徴とも言えます。
北方司令部へのメキシコの参加、そして三カ国の関税同盟の締結もそう遠くはないでしょう。
つまり、グリーン計画もまた、戦争以外の手段で成就したと言えそうです。
(2)明るみに出たレッド計画
レッド計画が1974年に秘密解除されたことに伴い、この計画について、二人のカナダ人がそれぞれ1977年と1993年に本を出版し、レッド計画がかつて存在したことが広く知られるようになりました。
しかし、英国やカナダに対する政治的配慮から、米国では朝野を挙げてこの計画の矮小化に努めてきました。
そのレッド計画の真実は、以上縷々ご説明したとおりです。
(3)結論
20世紀初頭の時点で米国が最も敵視していたのは日英同盟であり、その日英同盟の解消に成功してからは、米国の第一の敵は英国、第二の敵は日本となります。
そこで次に米国は、対英作戦計画であるレッド計画と対日作戦計画であるオレンジ計画を策定し、これら作戦計画を発動する等の方法で英国と日本を、それぞれ世界と東アジアの覇権国の地位から引きずり下ろす機会を窺う戦略を追求します。
そして米国は、先の大戦によってこの戦略を成就させ、爾来、世界の覇権国であり続けているのです。