太田述正コラム#12744(2022.5.11)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その13)>(2022.8.3公開)

 「吉野は、西園寺が自分の後継者に山本権兵衛や清浦圭吾を推挙することもせず、さりとて元老にかわるべき天皇の最高諮問機関(内大臣、枢密院議長、宮内大臣、貴衆両院議長からなる)の設置にも乗り気でないのは、西園寺が「政党内閣主義」の立場に立っているからだと主張し、・・・元老による後継首相奏薦は、これを歴史的に回顧すれば、超然内閣擁護のための制度として発足したのだから、政党内閣主義へ移行すれば、その歴史的使命は果たし終えたとみるべきである・・・、と。・・・
 しかし、吉野が知ることのできなかった、西園寺が側近の人物に語っていた言葉、たとえば、「政党員や新聞記者などには絶対極秘にしておかねばならないが、政変の場合はその時の事情によっては中間内閣<(注17)>(非政党内閣)でもよい」とか、「自分は表面では二大政党論を他者に語ったり、政党の党首でなければ首相に任命されるのはむずかしいようにいっているが、内心ではその時の状況によっては中間内閣もやむをえない場合もあると考えている」などを知る後世の歴史家は、西園寺が世界の大勢として政党内閣制を望ましいとみていたのは確かだとしても、「まぎれもない政党内閣論者であることは明白である」とまで断言する吉野の評価に対しては懐疑的であった。」(83~86)

 (注17)「挙国一致内閣とは、大規模な戦争や経済恐慌といった国家の危機や政党内閣の危機に際して、対立する政党をも包含して作られた内閣をい<い、>・・・日本では軍部出身者を内閣総理大臣として擁立した1932年の斎藤実内閣や1934年の岡田啓介内閣が有名である。この両内閣は政党内閣ではないが軍部内閣でもなく純粋な超然内閣でもないとして「中間内閣」とも呼ばれた。また、1940年10月12日から1945年6月13日まで存在した大政翼賛会に支えられた内閣も挙国一致内閣に分類される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%99%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%87%B4%E5%86%85%E9%96%A3
 「挙国一致内閣<とは、>・・・政党内閣の危機に成立し反対党をも包含した内閣。五・一五事件後の斎藤実(まこと)内閣以降,第2次大戦前の全内閣は実質的に挙国一致内閣だが,特に斎藤,岡田啓介内閣をさし<て>中間内閣ともいう。」
https://kotobank.jp/word/%E6%8C%99%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%87%B4%E5%86%85%E9%96%A3-53338

⇒杉山構想の第一歩は、英国における、第一次世界大戦の時の、及び、1931年10月に成立したばかりの、National Government(注18)(挙国一致内閣)、
https://en.wikipedia.org/wiki/National_Government_(1931%E2%80%931935)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%99%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%87%B4%E5%86%85%E9%96%A3
に倣った有事内閣的なものを日本に樹立することだった、と私は見ています。

 (注18)’In the politics of the United Kingdom, a National Government is a coalition of some or all of the major political parties. In a historical sense, it refers primarily to the governments of Ramsay MacDonald, Stanley Baldwin and Neville Chamberlain which held office from 1931 until 1940.
 The all-party coalitions of H. H. Asquith and David Lloyd George in the First World War and of Winston Churchill in the Second World War were sometimes referred to as National Governments at the time, but are now more commonly called Coalition Governments. The term “National Government” was chosen to dissociate itself from negative connotations of the earlier Coalitions.・・・’
https://en.wikipedia.org/wiki/National_Government_(United_Kingdom)

 三月事件は、杉山が貞明皇后や西園寺/牧野の了承の下で企画したものであって、「清水行之助・・・が主催する右翼団体・大行社が警視庁を襲撃、東京各所で擬砲弾を炸裂させて騒擾を起こし、社会民衆党の亀井貫一郎、赤松克麿らが大衆を動員して第59回帝国議会における労働法案上提の予定日である3月20日に開催中の議会へ群衆を押しかけさせ、陸軍将校が議会を封鎖して議会の保護を理由に浜口内閣(浜口は襲撃事件で重傷を負い、幣原喜重郎が代理を務めていた)を辞任させ、宇垣一成陸相を首班指名させ<て>・・・軍事政権を樹立する<、という>・・・計画<であり、>・・・計画の端緒については2説あ<るけれど>、・・・橋本欣五郎陸軍参謀本部<第2部>ロシア班班長・・・の手記<によるところの>、橋本が当時の宇垣一成陸相を首班とする軍事政権樹立のためのクーデターの実行を決意して、参謀本部第2部長・建川美次少将を通じて参謀次長・二宮治重中将、陸軍次官・杉山元少将、軍務局長・小磯國昭少将ら宇垣に近い将官の賛同を得、計画実行のために作戦課長・山脇正隆大佐、新聞班長・根本博中佐、鈴木貞一中佐、重藤大佐ら佐官クラスの将校を交えて協議を重ねた、とされ・・・る<説と、>・・・1931年(昭和6年)1月13日に、宇垣<が>陸相官邸で、杉山、二宮、小磯、建川、山脇、永田(当日は代理の鈴木貞一が出席)、橋本、根本と国内改造のための方法手段を協議し[要出典]、同月、宇垣の意を汲んだ二宮が橋本を呼んで、宇垣が政権を奪取するための計画の立案を指示し、橋本が桜会の仲間と計画立案に着手した、と<される説>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
のうち、私は、後者の説がどちらかと言えば正しく、いずれにせよ、宇垣の最終段階での変節により未遂に終わった、と、考えています。
 なお、このクーデターが決行され、成功しておれば、西園寺は、宇垣を首相に奏薦することになっていた、と。
 で、私の見解は、西園寺によるところの、首相奏薦者の一人元老制(と元老死去後の内大臣制)の「導入」は、憲政の常道のためという外見を装いつつ、実は、英国流の有事内閣的なもの・・これを西園寺らは後付けで(?)中間内閣と呼んだ・・を日本で樹立することによって、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの完遂戦争を実行するところにあった、というものなのです。
 そして、この、陸軍を挙げてのクーデターが未遂に終わったため、貞明皇后/西園寺/牧野/杉山は、予定を変更して、同じ年の9月に柳条湖事件(満州事変)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
を引き起こし、上記戦争に着手するとともに、その上でその後速やかに有事内閣の樹立を図ることにした、とも。(太田)

(続く)