太田述正コラム#12756(2022.5.17)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その5)>(2022.8.9公開)

 「だから桂太郎と西園寺公望が交互に内閣を組織した桂園時代とは、長州閥の山県有朋と伊藤博文が、「政党勢力の進出は止められない」との共通認識<(注4)>に立ち、政権をタライ回ししたものである。

 (注4)超然主義<とは、>・・・一般的には、大日本帝国憲法発布後の帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る内閣が採った立場を指し、内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張を言う。また、この主義を採る内閣を超然内閣と呼ぶ。
 超然主義は、第2代内閣総理大臣の黒田清隆が、大日本帝国憲法公布の翌日である1889年(明治22年)2月12日、鹿鳴館で催された午餐会(昼食会)の席上、地方官らを前にして行った、以下の演説(いわゆる「超然主義演説」)において表明された。
 ……憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非るは勿論なり。唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投して団結をなし、所謂政党なる者の社會に存立するは亦情勢の免れさる所なり。然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らさる可らす。各員宜く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭(ぶぎょ)宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり。……
 翌日、大日本帝国憲法起草を主導した伊藤博文も同様の主張を表明する演説を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E7%84%B6%E4%B8%BB%E7%BE%A9

⇒鈴木、いつの間にか、山縣が、議会制にに対する共通認識において、伊藤と同じであったことにしてしまっていますね。
 さて、黒田は秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者、伊藤はそうではない、という前提に立てば、黒田は、憲法の下で政府はこのコンセンサスを完遂させるためにブレることなく邁進する、ということを事柄の性格上必然的に舌足らずに宣言したのに対し、伊藤は、「実は、帝国憲法そのものが超然主義を前提に制定されたものでな<く、>例えば、帝国憲法第71条においては、本予算(当初予算)が年度開始前までに成立しなかった場合には、前年度の予算がそのまま新年度予算として執行される規定があった<ところ、>これは、政府予算が議会側によって人質に取られて妥協を強いられる事の無いようにという趣旨で、井上毅が提案したものであった<のだけれど>、裏を返せばそれは前年度予算がそのまま実行された場合には、当時の日本にとっての緊急の課題であった殖産興業や富国強兵政策のための新規事業が実施できなくなるという事も意味していた」(上掲)ということを重々承知しつつ、政党内閣は漸進的に実現されるべきなので、当面は、政府は超然主義的な姿勢をとらざるをえない、という、黒田や伊藤を含めた当時の政府のコンセンサスを、(恐らくは、その結論部分だけを)表明したものだったのではないでしょうか。
 つまり、明治政府が、黒田流にせよ伊藤流にせよ、言葉の本来の意味で超然主義であったことなど一度もなかった、というのが私の見解なのです。(太田)

 すなわち桂園時代とは、山県が藩閥・陸軍・内務省を、伊藤が議会を支配し、お釈迦さまの掌の上で暴れる孫悟空のように、振り子を山県と伊藤の間で左右に振ったのである。
 この構図のカラクリは一般国民からは見えないから、一見すると、桂太郎と西園寺公望が対立・抗争しているようにも見える。
 従って桂と西園寺が政権交代することにより、国民の政治的不満もそれなりに吸収・解消された。
 それだけではなく桂園時代という政治システムは、現代に通じる国民的意義を残した。
 すなわち、
一、「一内閣は一仕事を完遂する原則」を確立したこと。
二、国民に「政権交代」があることを教え、「大正デモクラシーの予行演習」として、「政権交代の先駆的形態」を実際に目に見える形で国民の前に提示した。
ことである。
 そしてこの後、わが国は「大正デモクラシー」という、アメリカ議会やイギリス議会のような二大政党の政権交代による議会政治を開花させるのである。」(31~32)

⇒「一」は除くべきでしょうが、その上で、政党政治とはいかなるものかについて、国民を教育するために、西園寺と桂が話し合った上で、疑似政党政治を演じて見せた、ということだったのだと思います。
 もう一点、鈴木説にケチをつければ、お釈迦様がいたとすれば、それは一人でなければならないはずであり、強いてそれが誰であったかを示せと言われれば、私は、伊藤ではなく、西園寺、桂両名の先輩たる秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者の山縣有朋だったであろう、ということですね。(太田)

(続く)