太田述正コラム#12758(2022.5.18)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その6)>(2022.8.10公開)
「政友会は大正3年6月18日に名目的な総裁だった西園寺公望が、総裁の座を原敬に譲り、原が名実ともに政友会の最高実力者となった。・・・
⇒そもそも、西園寺は、政党の総裁を長く務めたけれど、自身は、衆議院議員ではなかったところ、立憲政友会の、伊藤、西園寺と二代続いた貴族院議員総裁時代を終わらせ、より民意に近い衆議院議員総裁時代を到来させた、ということでしょう。
ここで、改めて、山縣、伊藤、西園寺、桂、の関係を簡単にまとめておきましょう。
「(伊藤)俊介も才子なり。これまた<井上聞多>同様御見捨てなく御教導を願い候」<と、>・・・吉田松陰<が>・・・山縣有朋へ宛てた手紙<の中で記している>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
というわけで、山縣は、伊藤を「教導」して、初代首相や、憲法の策定等に使ってあげた、という関係ですが、上掲の「<伊藤に対する>同時代人の評価」の中で山縣の伊藤評が引用されていないところを見ると、どうやら、山縣は、伊藤について語ることが殆どなかったようですね。
でこの「同時代人の評価」の全体に目を通すと、渋沢栄一によるものは辛辣極まる内容である(上掲)のに対し、西園寺によるそれは、伊藤とも縁が深かっただけに奥歯にものが挟まったような一見訳の分からない評になっているけれど、伊藤は「甚だ愚のような、目から鼻に抜けるような才ではない」だの伊藤と「個人としてつきあって見ますと明も沢山あるが暗の方も沢山あったようです」(上掲)だの、「伊藤博文の邸宅を尾崎行雄と訪れた際に、伊藤が席を外すと、<西園寺は、>「政治などというものは、ここの親爺のような俗物のやることだ」と吐き捨てるように言った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
だの、この上もなく伊藤について低評価であることが伝わってきます。
これは、勝海舟が西園寺について、「伊藤さんの子分でネ。アーそうさ、利巧の方サ」と評している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
ところ、「子分」が誤りであることは明らかであり、勝の眼力はその程度のものだったということが分かります。
(勝の山縣評は、「あれは正直一方の男サ」というものです
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
が、大正におけるその死まで、恐るべき陰謀を胸の内に秘めて布石を打ち続けた人物について、彼が皆目分かっていなかったわけです。)
他方、西園寺と桂との関係は、「政治上は対立していたが、西園寺は桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」と言うほど2人の関係は良好であった。また、愛妾を同伴して酒を酌み交わす会をたびたび開き、養子の八郎が桂の秘書官となるなどの交流もあった。」(上掲)と、親友関係と言ってもよいものでした。
最後に、西園寺と山縣の関係ですが、「大正11年(1922年)2月、山縣が病死した。山縣は死の直前に自分の私設秘書であった松本剛吉に、西園寺の元に仕えるよう命じた。これは山縣が西園寺を後継者と認識していたためであり、以降松本は西園寺の元に政治情報を伝える役割を担うことになった。西園寺自身も「山公薨去後は松方侯は老齢でもあり(中略) 自分は全責任を負ひ宮中の御世話やら政治上の事は世話を焼く考なり」と、山縣の後継者であることを意識していた。」(上掲)が全てを物語っているのではないでしょうか。
(桂については、同時代人による桂評が載っているものをネット上ですぐ見つけることができませんでした。)(太田)
山県有朋は、大正期におけるもっとも卓越した第二次大隈内閣の親英外交<(注5)>を不満として執拗な倒閣運動を仕掛け、総辞職へ追い込んだ。
(注5)「<1915年>1月18日には、中華民国政府に対し、権益の継続や譲渡などを求める対華21カ条要求を行った。・・・5月9日、中華民国政府は主要な要求を受諾したものの、・・・英米<等の>・・・列強の不信を買い、中国の反植民地運動を高める結果となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
⇒「注5」だけからでも、第二次大隈内閣が「もっとも卓越した第二次大隈内閣の親英外交」であるとの鈴木の主張は成り立ちえません。
山縣による「執拗な倒閣運動」なるものも、一体何のことか、さっぱり分かりません。(太田)
この動機は、一、第二次大隈内閣の卓抜した手腕に対する「老人特有の嫉妬」と私は考えている。二、一方、当時の長州閥内では山県有朋の側近の桂太郎や寺内正穀や田中義一や三浦悟楼らが「老人性の耄碌」との共通認識を持ち、山県の老害に辟易していた。・・・
尤も早い<1906年1月の>段階で「山県有朋は耄碌している」と感じ始め<、原にそう話し>たのは、山県有朋の最も身近に居た側近の長州勢の桂太郎だったのである。」(41、46)
⇒「旅順要塞の陥落と日本海海戦の勝利により戦争の大勢は日本優勢で決したが、一方で<1905年>12月5日に桂首相は政友会の原敬と、議会での協力の代わりに戦後に政権を譲るという密約を結んでいる。しかしこれは山縣に無断で行われたものであり、山縣系の閣僚である清浦奎吾農商務大臣や寺内陸軍大臣にも伝えられていなかった。
<当時参謀総長であった山縣は、>明治38年(1905年)3月30日には、参謀本部の意向を受け、ウラジオストク、樺太などの占領を含めた積極的作戦方針を上奏するが、これは閣議において否決されている。7月頃には満州で巡視を行った。ポーツマス会議が行われた8月頃には体調を崩し、椿山荘で療養に努めた。秋頃には伊藤から桂内閣と政友会の密約を知ることになった。しかも桂が自ら弁明せず、平田東助前農商務相を通じて弁明したことで山縣の怒りは頂点に達した。驚いた桂は11月中旬に自ら山縣の元を訪れて弁明し、山縣も政友会にではなく「侯爵西園寺公望」に政権を譲るということで了解した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B 前掲
という山縣の、どこが「耄碌している」のでしょうか、どこに「老人特有の嫉妬」が現れているのでしょうか?
また、この場合も、山縣が「執拗な倒閣運動」をやったわけではありません。(太田)
(続く)