太田述正コラム#12760(2022.5.19)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その7)>(2022.8.11公開)
「山県有朋の第二次大隈内閣に対する不満は、一、山県の「欧米白人種に対抗し中国・韓国と黄色人種連合を組む軍事外交思想」と、二、第二次大隈内閣の外相加藤高明<(注6)>の「英米協調により平和と繁栄を希求する外交方針」が、まったく相容れず、激突したからである。」(46~47)
(注6)「加藤高明<(1860~1926年)>は、>・・・尾張藩の下級藩士・・・の次男として生まれた。・・・<東大法卒。>・・・三菱に入社し・・・[すぐに海運業研究のため英国に留学する。ここで彼は政治に興味を持つようになり,陸奥宗光との出会いもあって,政治家への道を志す。帰国後,19年岩崎弥太郎の娘春治と結婚, 20<1887>年陸奥の勧めで外務省入省,大隈重信外相秘書として条約改正交渉に尽力。その後,一時大蔵省に移るが再び陸奥外相の外務省に戻り,のちの政敵原敬と共に日清戦争(1894~95)時の外交に当たる。28年駐英公使,
https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E-15722 (以下の[]内も)]
明治33年(1900年)には第4次伊藤内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺内閣の外相、駐英公使、第3次桂内閣の外相を歴任する。その間、衆議院議員を2期務め・・・、後に貴族院勅選議員に勅任された。
[政治面では陸奥に伊藤博文を紹介されてその知遇を得,大隈とも接近して,両者の結合に努め,山県有朋,桂太郎らと対抗するが,伊藤没後の大正2(1913)年には一転して]・・・、桂太郎の主導による立憲同志会の結成に参画する。同志会の成立を待つことなく桂が急死したため、同志会はいったん総務の合議による集団指導体制をとるも、のちに党大会で加藤が立憲同志会総理(党首)に選出された。翌年第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した憲政会の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。大隈内閣の外交政策を一手に握る加藤に対して、立憲政友会の西園寺公望や原敬からは殊に対華21ヶ条要求への批判が強まった。・・・
加藤は大正13年(1924年)6月11日、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部からなる護憲三派内閣を率いる内閣総理大臣となった。加藤は初の東京帝国大学出身の首相である。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を成立させた。・・・また、宇垣軍縮に見られるような陸軍の軍縮を進める一方で陸軍現役将校学校配属令を公布し、中等学校以上における学校教練を創設した。・・・
西園寺公望は加藤のことを・・・「一角の人物であった」と述べるなど高く評価していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E
「2度の内閣を組織し、その経験から自らが政党を組織することを志向した桂太郎は、自派の官僚と桂に気脈を通じる議員らとともに「桂新党」を結成しようとした。しかし、桂の自立をよしとしない政党嫌いの山縣有朋によって宮中に押し込められた桂がこの構想を公にするのは、第一次護憲運動に遭遇することになった第3次桂内閣の時期であ<った。>」(α)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A
ちなみに、「立憲政友会<は、>・・・1900年(明治33年)、政党内閣制の確立を企図した伊藤博文の議会与党として、結党された。」(β)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A
⇒「政友会は保守的で地主や大財閥の利益に密接であり、現代の自由民主党に近いものであった。一方で民政党は「議会中心主義」を掲げ、革新的で都市部の中産階級から支持されており、旧民主党(のちの立憲民主党など)に近いものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%88%B6
といった説明は、二重に誤りなのであって、戦前の二大政党は、結成時期のズレはあるものの、どちらも、(伊藤と桂という)権力者の私党として結成されたものであって、思想的にも地盤的にもさしたる違いはなかった、と私は見ており、このことは、加藤高明の政友会系から憲政会(後の民政党)系への乗り換えからも見て取れるのではないでしょうか。
山縣が、政党嫌いに見えたのは、議会制に政党が必然的に伴うことは十分理解しつつも、杉山構想的なものを実施すべく挙国一致体制を構築しなければならない時期が日本にそう遠くない将来にやってくることを知っていたことから、憲政の常道が日本において確立することが、この挙国一致体制の構築の妨げになりやしないかとを懸念していたのである、というのが私の見方です。
これに対し、どちらも山県の子飼いであったところの、西園寺と桂は、欧米諸国の目を晦ませるためにも、政党内閣制の確立、ひいては憲政の常道への移行、が望ましいと考えた、とも。
ですから、鈴木が、いかなる、典拠、理屈でもって主張しているのかは知りませんが、山縣と加藤が「相容れず、激突した」はずがないのです。
ちなみに、「注6」から分かるように、加藤を引き立てたのは陸奥宗光であるところ、その陸奥は、外交官時代の後、「第1次山縣内閣の農商務大臣に就任<し、>・・・大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し、初当選を果たし、1期を務めた<が、>閣僚中唯一の衆議院議員であり、かつ日本の議会史上初めてとなる衆議院議員の閣僚となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%AE%97%E5%85%89
けれど、当然、これは、山縣が陸奥の背中を押したからでしょうし、「明治10年(1877年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀<り>、・・・林・大江<が>暗殺すべき人物として秘簿をつくった<時、その>・・・・なかには大隈重信の名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けていると言い、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えた。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。」(上掲)ことからして、陸奥は、その後第2次伊藤内閣の外務大臣として大活躍をしたものの、それが彼のホンネの伊藤観を示しているのだと思うのです。
こういったことからも、私は、陸奥を秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者である、と見ており、よって加藤もまたそうだった、とも見ている次第です。
ですから、加藤は、山縣、西園寺/桂、そして、陸奥、らの嫡出後継者ということになるわけです。(太田)
(続く)