太田述正コラム#1604(2007.1.3)
<すべての歴史は現代史(その3)>
ウ フラグ
ジンギスカン(Genghis Khan)が亡くなくなり、孫のモンケ(Mongke)が後を継ぐと、モンケの兄弟のフラグ(HuleguまたはHulagu。1217??65年)には、1253年、シルクロードの最西端を確保するという任務が課せられた。
ジンギスカンの定法通り、フラグは、この戦いの名分を部下に徹底させた。
モンゴルの指導者達をも暗殺の対象としたところの、シーア派の一派、ニザール派の暗殺教団(Assassins。コラム#191、193)をバグダッドのカリフが抑えようとしないのはけしからんというのだ。
暗殺教団の要塞化された拠点は現在のアフガニスタンからイラクにかけての山中に点在しており、フラグはこれら拠点を全部落としてニザール派の脅威をなくすまではバクダッド攻略に乗り出さなかった。
カリフに対し、バクダッドの防壁を壊し、掘を埋めた上で一人でやってきて降伏せよ、という最後通牒を発して拒否されるや、ついに1257年11月にバクダッド攻略が開始された。フラグのモンゴル軍は85万、これにキリスト教徒とイスラム教徒の同盟軍を募り総計は100万人を超える大軍をもって、モンゴル軍は東方と南方から、同盟軍は北方と西方からバクダッドに迫った。そして、一挙にバクダッドを攻めることはせず、周辺の都市や村落を一つずつ落として行った。
1258年1月に始まった最終的なバクダッド攻めにあたっては、一般住民に脱出を命じた後、同盟軍を送り込んでバクダッドの隅々まで平定させ、その間、モンゴル軍は高見の見物を決め込んだ。
フラグは、カネを自分達の贅沢な生活に使い、しかもしこたま貯め込んでいたとカリフ(アッバース朝第37代カリフのムスタシム(Mustasim))とその一族を非難した上で彼らを処刑した。バクダッドの宮廷と行政機構のメンバー達の大部分も殺害した。
モンゴルは捕虜はとらず拷問もせず、捕まえた敵兵士は全員殺害した。数ヶ月はこういうことが続いたが、その後はバクダッドに平和が訪れた。
ジンギスカンはイスラム教徒たる一般住民に対しては、アラーは聖なる懲罰としてモンゴルによる勝利を望まれたのであって、モンゴルに抵抗することは神の意思に反することだ、と語りかけたものだが、バクダッドの一般住民に対しても同じ語りかけがなされた。
そしてフラグは、ペルシャ人の敬虔なイスラム教徒であるジュバイニ(Ata Malik Juvaini)にバクダッド統治を委ねた。ジュバイニはその後の20年の大部分バクダッド統治を担当したが、彼の書いたものはいくつか現在まで伝えられていて、イスラム世界の偉大な学問的業績とされている。
モンゴルはまた、大工・書記・陶工・織工・鍛冶、といった技能を持っている人々を大切にした。
モンゴルは更に、宗教の自由を徹底し、モンゴル支配下の地域はあたかも世俗国家のようになった。バクダッドではカリフの旧宮殿の多くは同盟軍に払い下げられ、実際的用途に供された。商人に対する税は減じられ、宗教・医学・教育関係者に対しては免除された。女性も男性とともに教育された。あらゆる臣民に対し、厳格な法が、ほとんど腐敗を知らない官吏によって平等に適用された。
だから、イラク地域には、キリスト教徒・イスラム教徒・ユダヤ人・仏教徒が流入した。
こうしてモンゴル統治下のイラクは、イスラム教時代が始まってから今日までの間で、イラクが最も豊かで文化の栄えた時代となった。
(以上、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-weather29dec29,0,4778693,print.story
(12月28日アクセス)による。ただし、事実を一部、
http://www.newyorker.com/fact/content/articles/050425fa_fact4
(1月2日アクセス)で敷衍した。)
このウェザーフォードによるフラグの事跡の紹介は、痛烈なブッシュ政権のイラク政策批判になっていることがお分かりいただけると思います。
ただし、フラグの事跡をこのような形で紹介することは、これまでの通説に真っ向から反する革命的な試みであることを知っておいた方がいいでしょう。
論より証拠、例えば、比較的最近のニューヨーカー誌2005年4月25日号に掲載された、下掲のような要旨のフレイジャー(Ian Frazier)論考と比べて見てください。
フラグはネストリウス派キリスト教僧に教育され、フラグの母親も同派のキリスト教徒であり、フラグの后も同派のキリスト教徒であって、この后はしばしばフラグに、彼の支配地でキリスト教徒に寛容であるように説得した。また、フラグの最も重用した将軍も同派のキリスト教徒だった。
フラグのやったことで良いことは一つだけであり、暗殺教団を壊滅させたことだ。
カリフのムスタシムは軟弱で将帥の器ではなく、また、不必要にシーア派を怒らせ、シーア派の少なからぬ部分をしてモンゴル軍に協力させてしまった。
しかも、ムスタシムの宰相(vizier)はよりにもよってシーア派であり、この人物が最後の場面でモンゴル側に内通したとされている。
ムスタシムが兵士達とともにフラグに降伏したとき、フラグは彼ら全員を殺害した。
その上でフラグは、キリスト教徒達に教会の中にとどまるように命じ、部下に教会に手を付けるなと厳命した上で、7日間バクダッドの掠奪を許した。
こうして数十万から100万人の人々が虐殺されたと言い伝えられている。一番ひどい掠奪を行ったのは、モンゴルの同盟軍のグルジアのキリスト教徒の兵士達だった。
カリフの宮殿群は灰燼に帰し、投げ捨てられたバクダッド図書館の本でチグリス川は歩いて渡れるようになり、チグリス川は本から流れ出たインクで黒く染まり、虐殺された人々の血で赤く染まった。
フラグは3,000人のモンゴル兵士をバクダッドに残してその再建にあたらせたが、10年経ってもバグダッドはほとんど廃墟のままだった。また、モンゴル軍が破壊した灌漑施設は、20世紀になってイラクが石油収入を得るようになるまで修繕されることはなかった。
数年前にオサマビンラディン(Osama bin Laden)は、湾岸戦争の時にパウエル(Colin Powell。当時米統合参謀本部議長)とチェイニー(Dick Cheney。当時米国防長官)はフラグのモンゴル軍よりも甚だしくバクダッドを破壊した、と述べた。
引き合いに出されたパウエルとチェイニーにはまことに気の毒だが、今日までフラグがイスラム教徒に目の敵にされるゆえんは良くお分かりになると思う。
(以上、ニューヨーカー上掲による。)
(続く)