太田述正コラム#12762(2022.5.20)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その8)>(2022.8.12公開)

 「・・・強大な軍事力を誇るアメリカが、ハワイ併合前年の1897年(明治30年)、すなわち日露開戦の7年前、日本征服計画である「オレンジ計画」を策定し、日露戦争後はオレンジ計画を一段とブラッシュ・アップして、虎視眈々と日本征服を狙っていた。
 この恐るべきオレンジ計画<(コラム#1614、1621、1628、1633、2431、2831、3475、3692、4526、4540、4544、6223)>を封じ込めたのは、・・・第二次大隈内閣(外相伊藤高明)が第一次世界大戦に連合国陣営の一員として参戦し、イギリス・アメリカの友軍としてドイツと戦い、オレンジ計画を一時的ながら空洞化させたことなのである。・・・

⇒オレンジ計画作成時に米国にとって最も重要だったのが対英国のレッド計画(コラム#1621)だったことからしても、鈴木のこの主張は噴飯物です。(太田)

 山県有朋は、第二次大隈内閣が第一次世界大戦に参戦したことに強い不満をもち、<1914年8月23日の>対ドイツ宣戦布告の直後、大隈重信首相・加藤高明外相・若槻礼次郎蔵相あてに意見書を提出した。
 第一次世界大戦は、ゲルマン人種(ドイツ)とスラブ人手(ロシア)の抗争に、アングロ・サクソン人種(英米)が絡んだ『人種戦争』である。
 彼ら白色人種は今は互いに戦っているが、早晩和解し、その後、白色人種は大同団結して、イギリスを領袖として『黄色人種』に襲いかかって来るに違いない。
 だから日本は、第一次世界大戦でのイギリス支援には慎重であるべきで、支那の袁世凱を支援して日支連携を深め、『黄色人種連合』を組んで、迫りくる『白色人種連合の襲来』に備えるべきである」との、荒唐無稽な妄想ともいうべき外交認識に基づく日支提携論を唱えた。・・・

⇒この意見書が事実だとして、その内容は、提出相手に秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者ではない若槻礼次郎(注7)も含まれていたことから、現在完了形を現在・未来形に置き換えてあるものの、改めて同主義/コンセンサスの要旨を示して、対外政策においてこれを念頭に置くよう要請した、ということでしょう。

 (注7)1866~1949年。「松江藩の・・・極めて貧乏だった・・・下級武士(足軽)・・・の次男<。>・・・若槻は、・・・司法省・・・法学校でも帝国大学・・・法科・・・でも常に首席であった。・・・大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。・・・大正元年(1912年)、第3次桂内閣で大蔵大臣、大正3年(1914年)から同4年(1915年)まで第2次大隈内閣で再度大蔵大臣を務めた。大正5年(1916年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924年)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、普通選挙法と治安維持法を成立させる。加藤高明が首相在職中に死去したため、<1926年1月、>憲政会総裁として内相を兼任し組閣する。・・・次に若槻が内閣を組織するのは昭和6年(1931年)4月のことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A6%AE%E6%AC%A1%E9%83%8E

 ところが、加藤は、「中国政府の顧問として日本人を雇用すること」を含む、対華21カ条要求を中国に突きつける等をしでかしたため、日支提携を阻害するつもりか、と、山縣を怒らせるわけです。
 なお、どちらも大秀才ではあっても、加藤のようなブレーキの壊れた主義/コンセンサス信奉者たる重臣、や、若槻のような主義/コンセンサスとは無縁の重臣、が出現したことも、山縣や西園寺が、元老「制」の廃止を決意するに至った理由の一つでしょうね。
 なお、加藤も若槻も東大法卒であることを記憶に留めておいてください。
 ちなみに、若槻については、「1926年2月14日に若槻は西園寺公望を訪問したが、面会後の西園寺の感想について松本剛吉の記録によると、「彼の男は桂の次官をした男故、妥協で議会を切り抜ける位は上手だろうが、後は言わぬ方が宜しいだろうと言われたり」、松本は西園寺の話は若槻が首相の器に非ずと解釈した」(上掲)ということから、西園寺が若槻をまるで買っていなかったことは明らかですが、松本が間違っていたのは、西園寺が、後に、あの凡庸な近衛文麿を首相に起用したことからも分かるように、首相を日本の最重要な国家官職であるとは考えていなかった、という点であり、現に西園寺はその程度の若槻を、既に首相に起用していただけでなく、1931年4月には再度、首相に起用した(上掲)ところです。(太田)

 山県有朋の妄念については、大正4<1915>年2月、陸軍少将田中義一(長州)が陸軍大将寺内正毅(長州)に「(山県)元帥はご老人のことなれば、見当違いの繰言も絶無とは申されず、押して御辛抱するよう」と自重を求めている。」(48、52~53)

⇒これも事実だとして、意見書提出から半年も後の話であり、この田中発言がいかなる背景、文脈の下で行われたものなのか、精査が必要でしょう。
 山縣も寺内も田中も、いずれも主義/コンセンサス信奉者ですしね。(太田)

(続く)