太田述正コラム#12768(2022.5.23)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その11)>(2022.8.15公開)

 「・・・その後、原敬首相が大正10年11月4日に中岡艮一(こんいち)に東京駅頭で暗殺され<(注11)>、原敬内閣は11月5日に総辞職となった。・・・

(注11)「中岡の供述によれば、原が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政権的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、中岡は首相暗殺を考えるようになったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC%E6%9A%97%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 中岡艮一(1903~1980年)。「足尾銅山の技師・・・の子として栃木県に生まれる。高等小学校を中退して印刷工場の見習い工員となるが長続きせず辞めて、1919年(大正8年)11月から山手線大塚駅の駅夫見習い、のち大塚駅の転轍手(レールの分岐器を操作する仕事)となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B2%A1%E8%89%AE%E4%B8%80

 イギリスは、ロンドンで1921年(大正10年)6月に「大英帝国会議」を開催し、「日英同盟廃棄を要求するアメリカとの友好を保持する」ことと、「日英同盟の継続」という矛盾を、どう調和させるか、を主題とした。・・・
 イギリス政府内の大勢は日英同盟継続論で<、>・・・首相ロイド・ジョージ<、>・・・カーゾン外相、チャーチル植民地相、国際連盟担当バルフォア枢密院議長、国璽尚書チェンバレンなど主要人物は皆、日英同盟継続論者だった。
 かかる状況を整理するため、・・・バルフォア・・・は、「日英米三国のいずれかが他国から脅威を受けた場合、いずれか2国は軍事同盟を結ぶ自由を有する」とのバルフォア試案<(注12)>を提示した。

 (注12)「これについては、バルフォアは、首席全権の加藤友三郎に、こう説明している。「両国のために多大の利益を供した貴重な歴史を有する該同盟は妄りにこれを棄てるべきではない。かつ近日において一時消滅した同盟の存在理由が、将来再び発生することがないとは保証し得ない以上、なお然りである」」
https://ameblo.jp/kororin5556/entry-12246752189.html

 これはいわば日英同盟の予約契約である。
 日本にとっては、このバルフォア試案に乗るのがベストの選択だったのである。
 当時、日本外務省の事務方は国際的孤立回避のため日英同盟の継続を希望し、日英同盟にアメリカを加えた日・英・米の三国協調体制を模索していた。・・・
 <しかし、>肝腎の原敬内閣(外相内田康哉)<は>、・・・「山県外交」を遵奉することによって成立してい<たところ、>イギリスを骨の髄まで嫌う元老山県有朋が・・・「最優先は黄色人種連合、第二優先はロシアとの日露協約、第三優先はアメリカとの妥協」とし、「日英同盟は第四優先の劣位」に位置づけた・・・ことが、外交交渉に臨む現場外交官を縛った。・・・
 <結局、原内閣から高橋内閣への>内閣交代のさなかの大正10年<(1921年)>11月12日に<始まった>・・・ワシントン会議<で、海軍軍縮問題と並行して外交問題が討議され、>・・・12月13日、・・・「太平洋における島嶼および領地に関し、アメリカ・イギリス・日本・フランスは相互の権利を尊重し、紛争が生起した場合は会議を開いて協議する」とする「四ヵ国条約」<が>成立<し、>同時に日英同盟は廃棄された。」(61~63)

⇒日露戦争前には、伊藤博文らが日露協商を唱えたのに対し、山縣らが日英同盟を唱え、日英同盟が成立した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
わけですが、当時、山縣らは、ロシアではなく、より強力でかつ信用できるところの、英国、と組む方が得策だと考えたのでしょう。
 しかし、山縣らは、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達として、アジア解放を目指しているわけであり、アジアを最も侵略していたのは英国なのですから、いずれは、英国を主敵としたアジア解放戦争を断行しなければならないのであって、そうである以上は、いつかは日英同盟を解消しなければならない・・同盟相手に宣戦するわけにはいかない!・・と考えていたはずであり、たまたま米国が日英同盟を潰しにかかってきたので、ここを幸いとその話に乗ることとし、最後の大仕事として、原内閣とその後継の高橋是清内閣に、四ヵ国条約締結受諾を指示したのでしょう。
 このおかげで、杉山元は、いわば、フリーハンドで杉山構想の策定作業を行うことができた、ということになります。
 当時の外相は原内閣の時から引き続き務めていた内田康哉(注13)であったところ、岡崎らの通説的内田評は間違いであり、恐らく、名和童山の薫陶を受けて、幼少時から日蓮主義者になっていたと私が見る内田は、同主義者として一貫した人生を歩んだのであって、ロンドン会議の時も、外相として、全権達に対し、山縣の意向に沿った指揮をした、ということなのでしょうが、ロンドン会議の全権中には、当時駐米大使であった幣原喜重郎も含まれていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
ところ、彼が、日英同盟終了/四ヵ国条約締結、に反対した形跡がないのが不思議と言えば不思議です。
 
 (注13)こうさい/やすや(1865~1936年)。「熊本藩医<の父と>熊本士族<の女子>・・・の子<。>・・・八代郡鏡町にあった名和童山の新川義塾などで学んだ後、同志社英学校に入学するも2年後に退学。<東大法>卒、外務省に入省<し、>・・・明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務め<、>・・・通算外相在職期間7年5か月は、現在に至るまで最長である。・・・
 1932年8月25日、<外相として>衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と答弁(焦土演説)。・・・1920年代の国際協調の時代を代表する外政家である内田の急転向は、焦土外交として物議を醸した。・・・ 
 岡崎久彦は「彼についての記録から彼の思想信念を知ることは難しい。おそらく特に哲学のない単なる有能な事務官僚だったのだろう。したがってその行動も時流とともに変わっていく。その意味で内田の意見は、時の国民意識の変化を代表しているといえる」と評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%93%89
 名和童山(なわどうざん。1835~1911年)。「名和が記した『八代城志』の序文によると、自身の系譜について、南北朝時代に南朝方として活躍し、伯耆から肥後へ下った名和氏の末裔であるとしているが、祖父・太平以前の系譜は伝わっていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%92%8C%E7%AB%A5%E5%B1%B1

 恐らく、幣原は、それが、彼の奉じる国際協調主義に沿っているというとんでもない勘違いをしていたのでしょうね。

(続く)