太田述正コラム#12772(2022.5.25)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その13)>(2022.8.17公開)

 「・・・憲政会の第一次若槻礼次郎内閣が倒れると「憲政の常道」に基づき政友会へ政権交代し、4月20日、政友会総裁田中義一<(注16)>が組閣した。・・・

 (注16)1864~1929年。「萩藩士・・・の三男として・・・うまれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという[要出典]。13歳で萩の乱に参加。若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入る。
 陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。
 また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。・・・
 日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。
 1910年(明治43年)、在郷軍人会を組織した。・・・
 1915年(大正4年)、参謀次長。原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務め、この時にマスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。
 1918年(大正7年)、田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵に叙され陸軍大将に進級<した。>・・・
 将来は元帥ともいわれたが政界への転身を図り、1925年(大正14年)、高橋是清の後の政友会総裁に就任した。治安警察法により現役軍人は政治結社に加入できないため陸軍は退役している。
 1924年(大正13年)の第2次護憲運動の際に立憲政友会は分裂して第1党の地位を失った。総裁であった高橋是清は辞意を表明して後任選びが始ま<り、>・・・就任に応じたのが田中であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80

⇒田中義一が、山縣有朋のお眼鏡にかなった秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であったことに間違いはないでしょう。(太田)

 田中内閣は、手荒なやり方ではあったが、一、金融恐慌への対処と、二、赤化思想による社会混乱の鎮静化を成し遂げた。・・・
 田中内閣は、将来ビジョンを持たず、諸懸案を器用に処理する現実対応主義の調整型の内閣だった。
 将来ビジョンが無いから、調整が可能だったのである。」(80~81)

⇒「<1925年4月からの田中の総裁時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A
に、政友会は、>高橋前総裁時代に出されていた軍部大臣の文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定されるなど、党の政策が軍備強化・対外強硬路線へと転換する。・・・
 <ちなみに、>1926年(大正15年)1月28日、田中は貴族院勅選議員となった。
 ・・・田中の誘いで政友会に入党した人物も、それまでの政友会とは異質な人々であった。鈴木喜三郎は国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長・枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、久原房之助は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。
 やがて・・・1927年4月20日<に>・・・成立した田中内閣では、鈴木が内務大臣、同じく平沼系とされる弁護士の原嘉道が司法大臣に抜擢され、さらに鉄道大臣に小川平吉、外務政務次官に森恪(外相は田中の兼務)、内閣書記官長に鳩山一郎が任じられた。3人とも政友会の古参であるが、小川と森は国粋主義者として知られ、鳩山は鈴木の義弟で協力者であった。2度の護憲運動や大正デモクラシーで活躍した政友会の古参幹部も閣僚には任じられたが、重要ポストからは外された。・・・鈴木・原によって治安警察法が強化され、森・小川によって軍部と連携して中国への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られた。・・・政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していくことになる。田中の没後に起きた統帥権干犯問題における政友会と軍部の連携も、単に立憲民政党への対抗というよりも政友会の変質に伴う「親軍化・右傾化」現象の反映であった。」(上掲)の、一体どこをもって、鈴木は、田中義一が、「将来ビジョンが無い・・・諸懸案を器用に処理する現実対応主義の調整型」だと言うのでしょうか。
 田中は、山縣有朋(~1922年2月1日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B 前掲
の遺志に沿って、1925年に、日本の有事化/総動員体制の確立に向けて歴史的な一歩を踏み出した総裁/首相たる政治家、として記憶されるべきなのです。(太田) 

(続く)