太田述正コラム#12778(2022.5.28)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その16)>(2022.8.20公開)
「司馬遼太郎氏は『この国のかたち』などで、大正末年から昭和20年の敗戦までを「異胎」とか「日本史の中の鬼っ子」とか「魔法使いが杖をポンと叩いて生じた魔法の森」と名付け、「何かの変異で遺伝学的な連続性を失った非連続の時代」と規定し、異胎や魔法の森が生じたのは「統帥権の独走」によるとして、「(浜口首相がロンドン海軍軍縮条約に調印すると)右翼や野党の政友会は浜口を『統帥権干犯』として糾弾した。
統帥期間は、なにをやろうと自由になった。
以後、敗戦まで日本は”統帥権”国家になった」・・・と述べている。
この指摘は正しい。・・・
⇒とんでもない。この指摘は完全に誤っています。
というのも、(敗戦ではなく終戦だったということはさておくことにしますが、)先の大戦を遂行した中心的な人々は、倒幕・維新を成し遂げた中心的な人々との間に、(比喩ではなく本物の)遺伝学的な連続性があったどころか、全く同じ遺伝子を持っていた、つまりは、同一人、か、同じ遺伝子を半分受け継いだ、つまりは、子供、達だった、と言ってもよいくらいの話だったからです。
ですから、司馬や鈴木が、先の大戦の時代を、「異胎」やら「日本史の中の鬼っ子」やら「魔法の森」やら、と形容するのであれば、倒幕・維新以来の日本史全体をそう形容しなければならないはずですからね。
司馬や鈴木は、まともな人物達が高齢になったら全員おかしくなった、とか、親はまともだったがその子供は全員おかしい人物達に育った、という、およそあり得ない主張をしているに等しいわけです。
また、仮に統帥権が肥大したのだとしても、それを問題視することもいかがなものでしょうか。
統帥権は、天皇が直接行使するものであり、統帥権が肥大したにせよ肥大しなかったにせよ、その統帥権行使の仕方が拙くて、例えば、対英米戦で日本の「敗戦」をもたらした、というのであれば、それは、天皇が無能だったか職務怠慢だったか、を意味するだけのことだからです。
もちろん、そのあたりを、とりわけ天皇の海軍に係る統帥権行使を対象に検証することは必ずしも無意味ではないでしょう。
しかし、検証するまでもなくはっきりしているのは、天皇が外交大権・・宣戦・講和、この中には事実上の宣戦も含まれる・・の行使に関して無能ないし職務怠慢だったことです。
満州事変然り、日支戦争しかり、対英米戦しかり、です。
前二者については、どちらも中国国民党政権との間で事実上の講和に至ることができませんでした(典拠省略)し、対英米戦に至っては、天皇が宣戦時に軍事的敗北に終わることが完全に予期できたのにそれを怠り、日本の陸海軍の無条件降伏をもたらした(コラム#省略)からです。(太田)
浜口雄幸内閣が病気重篤のため総辞職すると、後事を託された民政党の重鎮若槻礼次郎が昭和6年4月14日に第二次若槻礼次郎内閣(外相幣原喜重郎)を発足させたが、第二次若槻内閣が発足して5ヶ月後の9月18日に満州事変が勃発した。・・・
国際連盟理事会が12月10日にリットン調査団派遣を決定したので、事変不拡大方針を声明した第二次若槻内閣は進退窮まり、12月11日、総辞職に至った。
・・・憲政の常道に基づき、昭和6年12月13日に政友会による犬養毅<(注21)>内閣(蔵相高橋是清、外相芳沢謙吉)が発足した。」(89~91)
(注21)1855~1932年。「備中国賀陽郡庭瀬村字川入(現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男として生まれる(のちに犬養と改姓)。父は・・・庭瀬藩郷士である。元々、犬飼家は庭瀬藩から名字帯刀を許される家格であったという。・・・慶應義塾卒業<、>・・・記者となる。・・・統計院権少書記官を経て、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党<。>・・・1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立て<、>・・・尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。・・・東亜同文会に所属した犬養は真の盟友である右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在であった。1907年(明治40年)から頭山満とともに<支那>漫遊の途に就く。1911年(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため<支那>に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天の生家に匿う。・・・
犬養は第2次山本内閣で逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても逓信相を務めた。しかし高齢で小政党を率いることに限界を感じた犬養は、革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、逓信大臣や議員も辞めて引退した。しかし辞職に伴う補選に岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させた。再選された犬養は渋々承諾した・・・。さらに1929年(昭和4年)9月に政友会総裁の田中義一が没した。後継をどの派閥から出しても党分裂の懸念があったことから、犬養を担ぎ出すことになった。
1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。・・・1931年(昭和6年)、濱口内閣が進めるロンドン海軍軍縮条約に反対して鳩山一郎とともに「統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。・・・犬養は必ずしも反軍的な政治家ではなかったが、古参の政党政治家として軍縮等を主張してきた<というのに、こんな主張をしたのだから、>当初から親軍であった鳩山一郎や森恪が統帥権干犯を主張するのとは異なる重みがあ<り、>・・・政党政治家の自殺行為に等しいものだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
⇒犬養のような、慶應卒、大隈との縁、東亜同文会所属、というその経歴からして、まともな秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であったはずの人物が、軍縮を主張したり、首相になってからそれを実行しようとした(上掲)り、という、時勢に逆行する、反・主義/コンセンサス的政策を打ち出したり、統帥権干犯なるトンデモ主張に与したりしたのは、私見では、日本には2~3の大政党が競い合うような政党政治を成立させる基盤たる、階級/階層的、或いは、地域的、な分裂が存在しないことから、政策論争が成り立ちえず、利権の奪い合いや足の引っ張り合い的な政争に明け暮れざるをえず、政治家を堕落、劣化させるからです。
鳩山の場合は、官僚出身ではなく、犬養同様の生粋の党人でしたが、東大法教育による劣化に加えて、犬養同様の党人故の劣化が重なった、といったところでしょうね。(太田)
(続く)