太田述正コラム#12784(2022.5.31)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その19)>(2022.8.23公開)

 「侍従長珍田捨巳が病気急逝すると、内大臣牧野伸顕は、昭和4年<(1929年)>1月22日、後任の侍従長に海軍軍令部長鈴木貫太郎を据えて、牧野グループを強化した。

 (注26)「鈴木<の>・・・後妻<の>たか・・・は東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)の教諭であったが、菊池大麓東京帝大教授の推薦により、1905年(明治38年)から1915年(大正4年)まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇)、秩父宮、高松宮の養育に当たっていた。皇孫御用掛の役目を終えたのち、鈴木と婚姻。鈴木は後に侍従長を務めており、夫妻で天皇を支えた。二・二六事件の際、鈴木が襲撃されたことをたかが昭和天皇に直接電話をかけて伝えた。昭和天皇は、侍従長、総理時代の貫太郎に「たかは、どうしておる」「たかのことは、母のように思っている」と語っている。・・・
 1929年(昭和4年)に昭和天皇と皇太后・貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。
 宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。また、1930年(昭和5年)に、海軍軍令部長・加藤寛治がロンドン軍縮条約に対する政府の回訓案に反対し、単独帷幄上奏をしようとした際には、後輩の加藤を説き伏せ思い留まらせている。本来、帷幄上奏を取り次ぐのは侍従武官長であり、当の奈良武次が「侍従長の此処置は大に不穏当なりと信ず」と日記に記しているように、鈴木の行動は越権行為のおそれがあった。
 昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった。・・・
 <ちなみに、>海軍の命令で学習院に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に吉田茂がいた。吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること、つまり負けっぷりをよくすることだよ」などと言ったことを伝えていたと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
 また、1930年の時点で侍従武官(陸軍)だったのは阿南惟幾中佐だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D%E5%BE%93%E6%AD%A6%E5%AE%98
 「阿南は鈴木の侍従長時代の侍従武官であ<った>ときから鈴木の人柄に深く心酔していた。・・・
 1945年(昭和20年)8月14日の御前会議終了後、陸相・阿南惟幾は紙に包んだ葉巻きたばこの束を手に「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意はございませんことをご理解ください。この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参いたしました」と挨拶にきた。
 鈴木は「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。我が国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」と告げた。阿南は静かにうなずいて「私も、そう思います」と言って辞去した。鈴木は迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいた。その数時間後、阿南は割腹自決した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E

 この時期、天皇親政を目指す内大臣牧野伸顕は、政党政治を開花させた田中義一(政友会)の政党内閣に対して、反感を強めていた<ところ、>侍従長鈴木貫太郎は、政党政治への反感を強める牧野グループにいち早く順応した。」(99~100)

⇒鈴木貫太郎の侍従長就任は、「注26」からも分かるように、牧野が実質的な関与をしていたとは思えないし、鈴木が「天皇親政を目指す」「牧野グループに・・・順応した」に至っては、ことごとくが事実に反するところの、質の悪い御伽噺、としか形容のしようがありません。
 なお、鈴木と吉田の関係は教師と生徒、鈴木と阿南の関係は上官と部下、時代にそれぞれ形成されたわけですが、1945年時点で、吉田に対しては「君」づけ、阿南に対しては「さん」づけ、だったことは、鈴木の評価が阿南に高く、吉田に低かったことを示唆しているように私には思えるのですが・・。(太田)

(続く)