太田述正コラム#12786(2022.6.1)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その20)>(2022.8.24公開)

 「・・・茶谷誠一氏は・・・「牧野グループによる補導の結果、積極的な政治介入の姿勢をみせる昭和天皇は、田中首相を叱責して内閣総辞職にいたらしめるという事態を引き起こしてしまった。
 田中首相叱責事件により、天皇の政治意思の表明や親裁が抑制されていた大正時代とは異なり、あらためて、天皇の意思が政局に重大な影響をあたえることを各政治勢力に認識させる契機となった。
 そのため、天皇の意思と異なる政治思想や政策を抱く政治勢力からは、天皇の君徳補導にあたる側近、とくに、牧野グループへの批判が噴出するようになる」と指摘している。・・・

⇒本来、茶谷の本にあたらなければならないところを端折ることとしますが、そんなことでは全くなく、私見では、西園寺、牧野、と田中(!)、が、協議し、昭和天皇に衝撃を与えて爾後政治的発言を控えさせる目的で、天皇の田中に対する内輪での不満の表明を公の叱責という大事(おおごと)へと仕立てあげ、田中義一内閣を総辞職させ、更に、(想像が過ぎると叱られるのは甘受しますが、)田中を諫死させて見せたのです。
 「田中が<狭心症で>死亡したのが別宅であったことから、妾宅で腹上死したのではないかという憶測がある<ところ、>・・・この女性は、入籍はしていないが田中を長年支えてきた女性であるという<が、実は、>これとは別に、自殺(切腹)死説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80
ところですし、昭和天皇が、「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」と語っている(上掲)ように、彼らの体を張った策謀は大成功を収めたわけです。(太田)

 <田中内閣の後の犬養毅内閣の時、>新聞各紙や一般大衆は・・・昭和7年<(1932年)>3月に・・・出来てしまった・・・満州国<の>承認を要求し・・・たが、首相犬養毅は議会人としての信念を堅持し命懸けで満州国不承認の姿勢を貫いた。
 一方、天皇親政を目指す内大臣牧野伸顕が差配する宮中においては、機を捉えて、「政党政治を廃止して、天皇親政へ移行する」ことが意思統一されていた。
 昭和天皇への御進講<でも>・・・政党政治の欠点を指摘する内容が取り上げられていた。
 昭和5年に内大臣秘書官庁に就任した牧野グループのニュー・フェース木戸孝一は、就任後ほどなく宮中の空気を察知し、五・一五事件の41日前の昭和7年4月4日、「(犬養毅内閣が倒れたら)斎藤実のもとで挙国一致内閣を作ることになる」(木戸日記)との判断を固めた。
 また昭和天皇は、五・一五事件の一カ月前の昭和7年4月14日、「政党政治は駄目だ」(『木戸日記』)と木戸幸一ら周囲に漏らした。・・・

⇒このあたりの木戸日記からの引用記述は事実を反映していると見てよいでしょうが、この当時における「政党政治は駄目だ」の意味が、西園寺・牧野・木戸・杉山、にとっては、「有事だというのに挙国一致内閣ではないから駄目だ」であったのに対し、昭和天皇にとっては、「張作霖爆殺事件への対処や満州事変の拡大防止に世論に押されて後ろ向きな政党政治は駄目だ」、と、同床異夢だったはずです。(太田)

 <こうして、>天皇周辺においては、五・一五事件の一カ月前~二カ月前に、「犬養毅内閣が倒れたら、政党政治は廃止させ、後継首相は海軍の斎藤実<(注28)>を指名する」との意思統一が成立していた。

 (注28)1858~1936年。仙台藩士の子。「海軍兵学寮(後の海軍兵学校)・・・卒業<。>・・・1884年(明治17年)・・・から1888年(明治21年)・・・まで<米国>留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。・・・1898年(明治31年)11月10日に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第1次山本内閣まで8年間つとめた。1912年(大正元年)、海軍大将。1914年(大正3年)、シーメンス事件により海軍大臣を辞任し、予備役に編入された。1919年(大正8年)、武断政治が批判された陸軍大将長谷川好道に代わって、現役海軍大将に復して第3代朝鮮総督に就任、文化政治を推し進めた。・・・ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官への就任を経て1929年(昭和4年)に朝鮮総督に再任され1931年(昭和6年)まで務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F

 統帥権干犯論を報じる海軍青年将校が首相犬養毅を射殺した五・一五事件は、こういう状況下で発生したのである。」(101~102)

⇒ここを、鈴木は、天皇親裁=挙国一致内閣=政党政治廃止、との前提で書いているところ、どちらの等号も成立しないことについて、彼が、無知なのか、便宜的に知らないふりをしているだけなのか、は知らないけれど、どちらにせよ、呆れるほかありません。
 なお、首相に指名されるにあたって、「斎藤は英語に堪能で、条約派に属する国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されていたという」(上掲)のですが、私見では、前段がミソだったのであり、挙国一致内閣の皮切りたる首相は、有事なのだから軍人がふさわしいが、張作霖爆殺事件や満州事変を引き起こした(と見られていた)陸軍の軍人でない方が望ましい、ということだったのでしょうね。(太田)

(続く)