太田述正コラム#12804(2022.6.10)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その29)>(2022.9.2公開)
「・・・<こうして、改めて、>林銑十郎<(注37)>に組閣の大命が下り、林銑十郎内閣が2月2日に発足した。・・・
(注37)1876~1943年。「旧加賀藩士・・・の長男<。>・・・陸軍士官学校・・・第8期<。>・・・陸軍大学校<。>・・・陸軍の人事は、陸士での成績より陸大出身者を優遇する方針であり、少尉任官から15年後の1912年(明治45年)7月時点では、陸士8期の歩兵少佐としては渡辺錠太郎(山縣有朋元帥副官)がトップ、林銑十郎(朝鮮駐箚軍司令部附)が3番・・・とそれぞれ序列を上げている。・・・日露戦争・・・出征。・・・1913年(大正2年)から3年間にわたり、獨・英に留学し<、>ベルリンでは、真崎甚三郎歩兵少佐(9期)や永田鉄山歩兵大尉(16期首席)とも親交をもった。大正末に東京湾要塞司令官(中将)になった頃は予備役寸前かと思われたが、将官演習の成績が抜群だったことや、親友である真崎の援助で出世コースに返り咲いた。・・・
1931年(昭和6年)9月、満州事変が勃発した時、林は現役中将の筆頭として常設2箇師団(19D、20D)を擁する朝鮮軍司令官の職にあった。・・・奉勅命令を待たずに独断で隷下の混成第39旅団(旅団長嘉村達次郎少将・13期)に鴨緑江渡河を命じたために「越境将軍」と一躍名声をうたわれるようになった・・・朝鮮軍独断出兵が事後承認されたことによって、林の将来は大きく開かれることになった。
1932年(昭和7年)4月、大将に進級。陸軍三長官のひとつ教育総監兼軍事参議官に就任する。
1934年(昭和9年)1月、荒木貞夫陸相は風邪をこじらせ、その座を同期の真崎に禅譲しようと画策するが、真崎をよく思わない参謀総長の閑院宮載仁親王元帥は、強く林の陸相就任を勧めた。真崎は参謀次長時代に、閑院宮総長を神輿扱いして勘気を蒙っていた。結果、真崎は教育総監兼軍事参議官にまわることになる。
齋藤内閣の陸軍大臣(第25代)に就任、引き続き岡田内閣でも陸相を務める。・・・
1935年(昭和10年)7月、教育総監として度々、陸軍の人事に横やりを入れてきた皇道派の領袖である真崎甚三郎大将の更迭を実行した。閑院宮総長、軍事参議官渡辺錠太郎大将(8期)の後押しをうけたものであり、当時、大英断と概ね好評であったが、この更迭劇が・・・軍務局長永田鉄山少将が白昼、局長室内で斬殺された相沢事件(8月12日)、さらには翌年の二・二六事件につながっていくことになる。
永田軍務局長を失った林は、失意のうち翌月には川島義之大将(10期)に陸軍大臣の椅子を明け渡している。陸相を辞任した林大将は二・二六事件の襲撃対象から外され、真崎更迭に一役買った同期の渡辺錠太郎教育総監が襲撃され、命を落とした。
1937年(昭和12年)2月2日、第33代内閣総理大臣となる。・・・
1943年(昭和18年)1月半ば頃から風邪をこじらせた後、軽微な脳内出血を発症。・・・自宅で療養していたが悪化し、そのまま2月4日に薨去。・・・葬儀は・・・、大日本興亜同盟葬として水野錬太郎が葬儀委員長を務め<た。>・・・
林は・・・、自身は回教徒ではなかったが大日本回教協会の会長を務めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%8A%91%E5%8D%81%E9%83%8E
林銑十郎内閣は、昭和12年2月8日、政策綱領を発表し、「祭政一致の精神を発揚し、国運進暢(しんちょう)の源流を深からしめんことを期す」と祭政一致を標榜したが、これは国民に不評だった。
・・・西園寺公望は、「(林銑十郎のいう祭政一致は)宗教の自由、信書の秘密を認めた帝国憲法に違反する。宗教と政治を分離するのが政治の第一歩」と、冷ややかに述べている。」(172)
⇒「注37」を読めば分かるように、林銑十郎は筋金入りのアジア主義者なのであって、杉山構想の概要くらいは教えられていた可能性が大であり、たとえ「謹慎中」であったとしても、西園寺が林の首班指名に関与していなかったはずがありません。
鈴木が引用する西園寺の林の「祭政一致」論への揶揄は、西園寺によるメーキングでしょう。
そもそも、「大日本帝国憲法第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっていたが、この「臣民タルノ義務」の範囲は立法段階で議論の対象となっており、起草者である伊藤博文・井上毅は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解を持っていた。・・・<他方、>1899年の文部省訓令第12号「 一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件」によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされ<るとともに、>1890年(10月30日。帝国憲法施行より前)には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示され、国家神道の事実上の教典とな<り、>国家神道は宗教・政治・教育を一体のものとした・・・<という背景の下、>昭和に入ってから・・・<自身>や筧克彦<の>「神社を格別として、神道を国教としたのは不文憲法に基づくものであるとの学説・・・」<に基づき、>・・・美濃部達吉や<内務省>神社局には神社崇敬を憲法上の臣民の義務ととらえる姿勢があったが、内務省の公式見解として示されることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93
という背景に照らせば、神道を国教とみなした上で、政治と(教義を持たない)神道の一致を宣明したに過ぎないと思われる林を西園寺が咎めるのは不適切であり、そのことは西園寺も分かっていた筈だからです。(太田)
(続く)