太田述正コラム#12806(2022.6.11)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その30)/伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その1)>(2022.9.3公開)

「・・・林銑十郎内閣は、・・・昭和12年度予算案を成立させると、会期末の昭和12年3月31日、突如、衆議院の解散に踏み切った。
 予算案の成立後で何ら争点は無く、予算成立というご馳走を食べ終わるなり解散したので「食い逃げ解散」と評された。・・・
 総選挙(4月30日)の結果<は、>・・・与党の・・・完全敗北だった。
 しかし首相林銑十郎は強気の姿勢を崩さず、政権に居座り、再度の衆議員解散をちらつかせた。・・・
 ここに至って、さすがの陸軍も林銑十郎内閣を見放し、陸相杉山元が総辞職を勧告。

⇒この時点までに、杉山が文字通り陸軍の頂点に立っていることが窺えますね。
 そして、当時の日本が紛れもなく民主主義国家であったことも・・。(太田)

 「何にもせんじゅうろう内閣」・・・は、昭和12年5月31日、総辞職した。・・・
 元老西園寺公望は、・・・太平洋戦争開戦前年の昭和15年9月27日に「日独伊三国軍事同盟」が調印されると、「まあ馬鹿げたことだらけで、どうしてこんなことだろうと思うほど馬鹿げている」と嘆いた。
 そして2カ月後の昭和15年11月24日、老衰により死去する。
 西園寺の最後の言葉は、「いったい、この国をどこへもってゆくのや」だったという。・・・」(174~176)

⇒どうせ、鈴木は、このあたり、西園寺の「私設秘書」の原田熊雄の口述回顧による『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』に拠っているのでしょうが、「そそっかしい性格でも知られ、当初は重要な情報を不用意に漏らすこともあったため、西園寺から「彼は馬鹿だから秘密は話せぬ」と酷評されたこともあった<けれど、>やがてその献身的な仕事ぶりを評価され、重要な局面で西園寺から見解を徴されるほどの信任を受けるようになった」原田
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%86%8A%E9%9B%84
に対して、西園寺が、生前、自分が死んだら自分の昭和期の伝記を出せと原田に命じ、三国同盟をくさしたり、亡くなる前・・恐らく相当前・・には憂国の言を吐いたり、と、心にもない演技をしたのでしょう。
 但し、この「最後の言葉」は、考え抜かれたものだった可能性があります。
 一つは、ここだけ京言葉になっていることであり、これは、西園寺が、生涯、(秀吉流日蓮主義者としての)初心を貫いたと宣言したとも受け止められますし、もう一つは、西園寺は、当時現在進行形だった「先の大戦」がやがて始まる対英米戦というグランドフィナーレを経て日本の大勝利に終わることまでは(杉山元とのやりとりを通じて)知っていたのだけれど、そのそう遠くない将来の日本の国民が、更にその先の日本を「どこへもってゆくの」かまでは見当がつかず、それが気がかりだった、とも受け止めらますからね。(太田)

(完)

   –伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その1)–

1 始めに

 西園寺より山縣の方が年長なのだから、この本を、西園寺三シリーズの前に取り上げるべきだったと今更ながら後悔していますが、とにかく、始めましょう。
 ちなみに、伊藤之雄(ゆきお。1952年~)は、「京大文卒、同大院修士、同大博士課程満期退学、京都薬科大を経て名大文助教授、京大博士(文学)、京大法教授、ハーヴァード大客員研究員、京大定年退職、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%B9%8B%E9%9B%84
という人物です。

2 『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む

 「・・・吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛からの山県評価が・・・高いのに反し、三人を敬愛し続ける日本国民は、山県に反動の権化のようなイメージを持っている。・・・

⇒それは、そういうイメージを国民に抱かしたところの、(恐らく伊藤自身を含む)日本の識者達の責任です。(太田)

 <長州>藩校明倫館・・・<には、伊藤家や>山県家のような足軽・仲間組の子弟は入校は許されなかった。・・・
若くして渡英した伊藤や井上は、その衝撃で攘夷論のみならず師である吉田松陰の観念的な考え方を脱却した。
 こうした体験がなかったことも加わり、山県は明治維新以後も伊藤や井上らに比べて、古い殻へのこだわりを残し続ける。・・・
 ・・・1864<年>6月にロンドンから良い小浜に戻った伊藤と井上は、同月下旬に山口に到着し<、>・・・藩の要職者たちの面前で、・・・西洋の事情を述べ、攘夷の方針を止め、英・米・仏・蘭の公使に通告して無益な戦争を避けるべきである、と熱弁をふる<い、>・・・また、長州藩単独で京都方面で争うことは、国力を不必要に消耗するだけであるので、時期を待つべきであると主張した。
 しかし、藩はこの方針を受け入れなかった。・・・
 山県は、・・・伊藤<に、>・・・「天下の情勢」はすでにこのようになっているので、たとえ馬関(下関)が焦土になってもどうすることもできない、ただ「尊攘の主意」を貫徹すべきである、とのみ告げて、奇兵隊の駐留する馬関に戻った(山県有朋述「懐旧記事」)。
 ことが成就するか否かを考えるより、可能性を考えずに自らが正義と思うところを命がけで実行する、その中からおのずと道が開けることもある、というのが吉田松陰の教えの基本である。・・・
 山県は松陰の教えに忠実であろうとした。・・・
 他方、伊藤・井上や彼らに説得された高杉は、たとえ孤立しても自らの正義と信じるところを命がけでやっていくという意味で、やはり松陰の教えを守っているともいえる。」(18、25、39~41)

⇒わざわざ「観念的な(?!)」松陰まで引っ張り出した意味など全くない、結論先にありきの愚論、を伊藤が述べているのがお分かりか?
 私見では、長州藩には反幕・倒幕という藩論があり、隠れ薩摩藩士の山縣は秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスを信奉していたのに対し、高杉、伊藤、井上、には(正義感や野心はあれど)思想らしい思想を持ち合わせていなかった、ということが、このような意見の違いをもたらしたのです。
 山縣は、薩摩藩の西郷や大久保利通らの同志として、長州藩を使嗾し攘夷を掲げさせて先鋒として使うことで、倒幕・維新を成就しようとしていたわけであり、長州藩の戦いを止めさせるつもりなど全くなかった、ということなのです。(太田) 

(続く)