太田述正コラム#12810(2022.6.13)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その3)>(2022.9.5公開)
「・・・1866<年>5月下旬になると、幕府側の諸藩兵約10万人が長州の藩境に迫った。
長州藩の約10倍の兵力である。・・・
長州藩側<が>・・・勝てた理由は、長州藩側が最新のミニエー銃を装備した西欧式の陸軍編成だったのに対し、幕府側は弓矢・槍・火縄銃など関ヶ原以来の旧式装備であったからである。
また、長州藩側は自国を防衛するという点で、士気が高く、地の利も持っていた。・・・
⇒幕府側の編成への言及がありませんが、関ヶ原以来の諸大名連合軍だったわけであり、事実上の総大将であったところの、一橋慶喜は、あえて、徳川幕府がいかに無能、無気力な存在になり果てていたかを国の内外に周知させるために、この第二次長州征討を行った、と、我々は受け止めるべきでしょう。(太田)
山県が列強の動向に関し、利権を求めて必ず日本に戦争を仕掛けてくると、極めて悲観的に見ていたのは、かれの性格の大きな特色である。・・・
伊藤は列強の動向を悲観的ばかりには見ていない。
それは、ロンドンへの密航体験や、その後日本で西欧人と直接交渉した経験の差ばかりでなく、持ち前の楽天的性格が関係している。
⇒それは、両者の性格の違いに由来するものではなく、この場合、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者か否かという「思想」の有無を持ち出すまでもなく、縄文的弥生人である点では共通しつつも、山縣は伊藤に比べて、縄文性/人間主義者性、がより強かったことに由来するものでしょう。
すなわち、伊藤はアジア諸国伝いに英国に密航したのに対し、山縣はそんな経験がなかったにもかかわらず、伊藤は、半植民地/植民地下のアジア人達の境遇に憤激の念を抱かなかったというのに、山縣は、憤激の念を抱いていた、ということなのです。
これは、換言すれば、伊藤は、自国の安全保障だけを考えていたのに対し、山縣は、アジア、というか、半植民地/植民地地域、ひいては欧米も含む全世界、の安全保障を考えていた、ということでもあります。(太田)
<1866>年4月23日に、山県は奇兵隊軍監のまま「他藩人応接掛」として馬関駐在を命じられた。
「他藩人応接掛」とは、同年1月に木戸と西郷の間で薩長連合が再確認されたことに伴う、主に薩摩との交渉担当であろう。
伊藤や井上は任じられておらず、山県の意欲を削がないために特別に作られた肩書きだったと思われる。
しかし、同年10月に薩摩藩から内密の正使と副使が山口に来ると、伊藤博文(俊輔)は接待したが、山県は薩摩藩との交渉に関わることができなかった。
山県は薩摩藩には無名の存在であったし、また山県には奇兵隊軍監として小倉口で小倉藩兵と戦う仕事があったからである。
⇒木戸孝允には、山縣が薩摩との間で二重スパイではないかという疑いが(正しくも)あったために、山縣を薩摩藩との交渉窓口にすることはあっても、交渉自体に当たらせることは控えた、ということでしょう。(太田)
<1867年、>京都<で、>・・・5月・・・18日<に、>・・・山県は、薩摩藩のリーダー西郷を自ら訪ね、初対面ながらかなりうちとけることができた。
山県は29歳、西郷が39歳の出会いであった。・・・
⇒以前にも記したことがあります(コラム#省略)が、「1858年・・・7月、時勢を学ぶためとして、山縣を含む6人の若者が京都に派遣されることとな<り、>・・・京都で・・・尊王攘夷派の大物であった久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化されて尊皇攘夷思想をいだ<いた。>・・・1860年・・・には薩摩藩の動向を探るため、書状の届け役として薩摩に潜入しているが、警戒が厳しく薩摩弁も理解できなかったために役目を十分に果たせなかった。・・・1863年・・・2月に再度京都へ向かい、滞在中に高杉晋作と出会い親しくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
ということからして、最初の上京の時に、在京の薩摩藩士達と交流があったと私は見ており、だからこそその2年後に山縣は、薩摩へスパイとして訪問させられることになったのであって、二度目の上京の時を含め、西郷に会っていた可能性だって否定できず、いずれにせよ、この間に、山縣は秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者になり、かつ、隠れ薩摩藩士として薩摩藩の長州藩に対するスパイにもなった、薩摩入りの時の詳細を山縣が明かしていないのはそのためである、と私は見ている次第です。(太田)
6月15日、山県のいた相国寺の薩摩藩邸を、西郷隆盛が訪れた。・・・
おそらく西郷は、薩摩藩の意思を長州藩に伝える役として、山県が信用に足る人物であるかどうか、再確認するために来たのであろう。
山県はテストに合格した。
さらに翌日も、西郷が山県を訪れ、島津久光・・・が山県に拝謁を許すと伝えた。
山県は、品川<(注5)>とともに久光に拝謁した。・・・
(注5)品川弥二郎(1843~1900年)。「長州藩の足軽・・・の長男として生まれた。・・・松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受ける<。>・・・高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。・・・1864年・・・の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。・・・1865年・・・、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。
明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに6年間留学する。内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられる。
明治24年(1891年)に第1次松方内閣の内務大臣に就任するが、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた・・・。・・・
民間にあっては、獨逸学協会学校(現:獨協大学)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%BC%A5%E4%BA%8C%E9%83%8E
久光との会見後、山県は西郷とともに小松帯刀の所に行った。
大久保利通らもそこにいた。・・・
⇒維新後の日本の事実上の最高権力者は、大久保利通⇒山縣有朋⇒西園寺公望⇒杉山元、と受け継がれていく、というのが私の見方であるわけです。
(西園寺までは既述している(コラム#省略)ところ、杉山元にまで繋げたのは初めてです。)(太田)
小松は、山県からの質問に答えて、薩摩藩は「朝廷の護衛を第一」とし、「勅命」を得て「幕府の罪を正し」、国家の基本を立てたいのである、と答えた・・・。・・・
近年の研究では、この年、<1867>年12月頃まで薩摩藩はリスクの大きい武力倒幕をためらっていたことが明らかになっている・・・。」(46~47、49~51、54~56)
(続く)