太田述正コラム#12814(2022.6.15)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その5)>(2022.9.7公開)

 「10月14日、第15代将軍徳川慶喜は、前土佐藩主山内豊信の助言を入れ、大政奉還の願いを朝廷に提出した。・・・
 それに対し、15歳の天皇睦仁(明治天皇)の祖父で中堅公家の中山忠能(ただやす)が岩倉具視と相談し、同日に討幕の「密勅」が薩長両藩に下された。
 この「密勅」には、摂関家など当時の朝廷の重要意思決定に関与する立場の者が、誰も加わっていない。
 つまり、岩倉と中山らが勝手に書いた偽文書であった。

⇒時間的には、倒幕の密勅は、大政奉還の願いの提出より先行し、この願いの提出を受けて撤回されているとされている(コラム#12584)ところ、伊藤が新説を唱えるのであれば、そう断った上で典拠を示すべきでした。
 なお、私は、この密勅も、近衛忠煕らの差し金だと見ているわけです(同上)。(太田)

 この偽の「密勅」は、薩長両藩の関係者以外には秘密にされていたが、薩長両藩士を倒幕へと扇動するには十分であった。
 この「密勅」が下されたという報を聞くと、山県ら諸隊の関係者は、一日も早く京都・大坂方面へ出兵すべきであると活気づいた。・・・
 そのうち、11月17日に島津茂久(薩摩藩主)に率いられた薩摩藩兵が三田尻に入港し、茂久と毛利敬親父子が会同した。
 こうして両藩は西宮に上陸させることになった。
 11月25日、長州藩は先発隊として奇兵隊など諸隊の一部、500人近くを7隻の船に分乗させ、表面上は広島藩の兵として出発した。

⇒「広島藩」のところ、背景事情等を教えて欲しかったですね。(太田)

 この部隊は長州藩の家老が形式上の最高指揮者であったが、実質は允山田顕義<(注7)>(あきよし)(市之允(いちのじょう)、前御楯隊軍監、102石)であった・・・。・・・

 (注7)1844~1892年。「長州(萩)藩士で藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男。吉田松陰門下のひとり。[・・・1865年・・・に普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んだ。]
 江戸幕府の長州征討では高杉晋作の下で「丙寅丸」の砲隊長として幕艦を撃破,戊辰戦争では東征大総督参謀として,越後,東北,箱館と奮戦,[西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言があり<、>]小ナポレオンと称されるほどの用兵家。
 明治2(1869)年兵部大輔大村益次郎の下で兵部大丞を務め,大村の死後は,遺志を継承して兵制確立に力を注いだ。4年に陸軍少将,岩倉遣外使節団の一員として<欧州>を視察。[フランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。]
 帰国後,清国駐在全権公使に任命されたことに不満で,赴任せず,折しも佐賀の乱(1874)が勃発し,その鎮圧に当たった。同じ長州出身の山県有朋とは相容れず,山県の進める徴兵制に反対し,下士官養成を先にすべきという漸進論を主張,7年台湾出兵の閣議決定にも反対を唱えた。西南戦争(1877)の際は,別働第2旅団司令長官として活躍。11年陸軍中将に進んだ。この間7~12年司法大輔。12年参議に就任,内務,工部,司法卿を歴任。第1次伊藤博文内閣から24年まで司法大臣を務めた。 22年大隈重信外相の条約改正案に「大審院に外国人判事を任用する」という譲歩的事項が含まれていたことが「憲法違反」として世論の攻撃にさらされると,窮余の策として帰化法の制定を閣議に提案,外国人判事の採用を可能にしようとした。20年からは法律取調委員長を務め「法典伯」の異名をとるほどの熱意で法典整備に尽力。民法はフランス人ボアソナード,商法はドイツ人レースラーの原案起草を得てともに23年の公布にこぎつけた。しかし,フランスに範をとる民法が日本の国情に合わないとの議論がやがて起こり(法典論争),山田は早期施行を主張したが,結局両法とも施行されなかった。また神道の擁護と教育方面にも熱意を示し,22年皇典講究所所長に就任し,日本法律学校(日本大学の前身),国学院を創設した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A1%95%E7%BE%A9-21914
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A1%95%E7%BE%A9 ([]内)

 この時期の山田は、山県よりわずかに格上の軍事指導者であったといえる。」(60~61)

⇒秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスに独力で達したと私が見ている木戸孝允、同主義/コンセンサスを隠れ薩摩藩士として身に着けたと私が見ている山縣、に対し、ついに同主義/コンセンサスの門外漢で終った山田、といったところでしょうか。
 どうして門外漢で終ったかですが、「注7」に出てくる山田が、節目節目で筋悪の判断をほぼ繰り返したことから、戦術家としては優秀な部分はあっても、戦略家としての能力がなかったのでしょう。(太田)

(続く)