太田述正コラム#12820(2022.6.18)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その8)>(2022.9.10公開)
「・・・山県は欧州から帰国した月の末、明治3年(1870)8月28日に兵部少輔(兵部省の次官クラス)に任じられた。
兵部省は後の陸・海軍両省にあたるものである。
しかし、山県が就任した時は、廃藩置県の前で、各藩が独自に軍事力を有していた。
兵部省の配下の陸軍は長州兵の2個大隊ほどであり、仕事は皇居の護衛をする程度で大した官庁ではなかった。・・・
山県が帰国した翌月、9月になると、大久保は廃藩を実行しようとし<た。>・・・
西郷隆盛は、大改革をするには薩摩・長州2藩の提携だけでは不十分とみた。
そこで大久保や木戸らの同意の上で、土佐藩の協力も求めることになった。
・・・明治4年・・・2月の初めには木戸・大久保や西郷・板垣退助・・・が東京に勢ぞろいした。
また2月13日、薩摩・長州・土佐3藩に将兵約8,000人を御親兵として差し出すことが命じられた。<(注9)>
(注9)「明治3年(1870年)12月、山縣有朋<が>当時鹿児島藩(薩摩藩)の政務にあたっていた西郷隆盛に対して、天皇と中央政府を守るために薩摩藩・長州藩・土佐藩の献兵からなる親兵を組織することを提案した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%A6%AA%E5%85%B5
ことが成就したもの。
この間、山県は<鹿児島や山口を訪れ、奔走している。>・・・
明治4年・・・2月になると、日田県・・・に起こった一揆<(注10)>・・奇兵隊を脱退し長州藩庁によって鎮圧された者たちの残党が指導していた・・への対策が重要問題となった。・・・
(注10)日田騒動。「1870年(明治3)11月に日田県(現大分県)日田・玖珠(くす)二郡で起こった一揆。長州藩脱隊騒動の脱走浪士らによる日田県庁襲撃の策動にも影響されて、日田郡五馬(いつま)筋の農民は、畑方租税の増額反対などを要求して、17日に蜂起し、庄屋宅などを打毀(うちこわ)した。6000~7000人に膨れ上がった農民は、19日から20日にかけて、郷兵、藩兵と衝突しながら、日田の町を中心に牢屋、地役人、庄屋、富豪宅などを激しく打毀した。さらに玖珠郡でも約3000人が蜂起した。この間、打毀は280軒にも達した。しかし、21日には鎮静に向かいやがて終息した。処刑者は死罪4人を含め18人。一揆の影響は豊後国(大分県)全域に及び、12月に入ると各地で一揆が続発した。この騒動は、直轄県で発生した一揆であり、しかも浪士らの反政府策動とも関連をもっていたことで、政府に衝撃を与えた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%94%B0%E9%A8%92%E5%8B%95-1581808
「日田県<は、>・・・府藩県三治制のもとで、江戸幕府西国筋郡代の代官所所在地であった日田に設置され、当初は豊後国日田郡、玖珠郡と豊前国下毛郡の旧西国筋郡代支配地132箇村6万2千石を支配した。初代県知事は薩摩藩出身の松方正義。2代目県知事は同じく薩摩藩出身の野村盛秀である。同じく西国筋郡代を前身として日向国に置かれた富高県や、諸藩預所、旗本采地などの天領、所領を合わせて県域を広げた。2代知事のときに、・・・日田騒動・・・が起こった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%B0%E7%9C%8C
野村盛秀(1831~1873年)は、「薩摩藩藩士。・・・1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に薩摩藩が独自に参加した際に家老岩下方平を団長とする訪問団に加わってフランスを訪れた。1868年(明治元年)に長崎裁判所判事兼九州鎮撫使参謀として九州地方の平定に尽力し、翌1869年(明治2年)そのまま長崎県知事に転じる。1870年(明治3年)に松方正義の後任として日田県知事に転じ、廃藩置県後に日田県が廃止されると、初代埼玉県令となったが、在任中に・・・病死した。
日田県知事時代に当時咸宜園で学んでいた清浦奎吾に目をかけて、埼玉県令転任後に呼び寄せている。埼玉県職員を振り出しとした清浦は官僚政治家として活躍し、後に内閣総理大臣となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%9B%9B%E7%A7%80
2月15日に長州藩のみならず薩摩・肥後(熊本)・土佐3藩からも<鎮圧のために>出兵することになった・・・。
しかし、なぜか薩摩藩の出兵が遅れた<ため、やはり、山県が奔走している。>・・・
⇒日田騒動は、豊後国に対して、江戸期以前から、長州勢と薩摩勢がそれぞれ食指を伸ばしていた(注11)ことを思い起こさせます。(太田)
(注11)長州:勢場ヶ原(せいばがはる)の戦い(1534年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A2%E5%A0%B4%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
薩摩:耳川の戦い(1578年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
:豊薩合戦(1586~1587年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%96%A9%E5%90%88%E6%88%A6
山県はこの年<(明治4年(1871年))>7月に行われる廃藩置県の過程の中で<も>、西郷隆盛らとの旧来の人脈を生かし、薩摩との連携を強めようと動いた。
それ<ら>が実を結び、・・・<山県は、>長州藩の中で、一軍人としての地位を超えた役割を果たすようになる。」(78、80~83)
⇒山縣は、日田騒動鎮圧にあたっても、御親兵設置/廃藩置県に関しても、中心的な役割を果たしたと言っていいでしょう。
なにせ、例えば、後者に関して言えば、「木戸孝允は・・・御親兵の力を背景に廃藩置県やそれを支える官僚・租税制度の整備などの中央集権化政策を一気に実施しようとした・・・が、大久保利通は木戸や大隈重信が進める急進的な政策には批判的で、自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と西郷の入閣はこの流れを変える足がかりになると考えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%A6%AA%E5%85%B5
と、維新の元勲達は鈍才・鈍行組(薩摩)v.秀才・急行組(長州・肥前)の間で考え方が割れており、両者の間を周旋して回って合意に導いたのは薩長「両属」の山縣だったのですからね。(太田)
(続く)