太田述正コラム#12822(2022.6.19)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その9)>(2022.9.11公開)
「山県は、兵部卿(長官)の有栖川宮熾仁の下で大輔(たいふ)(次官)が欠員になっていた兵部省で兵部少輔(次官クラス)として省内で重きをなしてゆき、明治4年(871)4月には廃藩に向けて、薩摩出身参議の大久保や西郷従道兵部大丞<(注12)>(だいじょう)(局長)と相談して、鎮台の設置の準備を進めた・・・。
(注12)兵部少輔は2人で、それぞれ、陸軍、海軍、を担当した。
また、大丞を局長相当と解するのが適切なのかどうかは知らないが、大丞はもう一人いたはずだ。
https://library.answerthepublic.net/japan/A/%E5%85%B5%E9%83%A8%E5%A4%A7%E4%B8%9E
御親兵が薩長土の将兵からなり、皇居と東京を守る精鋭部隊であったのに対し、鎮台は廃藩後の諸藩兵を各地に置き、国内の治安等にあてようとするものであった。
4月下旬に、東山道(石巻)・西海道(小倉)に鎮台を置くことになったが実現せず、廃藩置県後の8月20日に東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)に鎮台が設置された<(注13)>。・・・
(注13)「まず、太政官が将来全国に鎮台を置くことを明らかにした上で、1871年6月10日(明治4年4月23日)に現在の東北地方に東山道鎮台(本営石巻、分営福島・盛岡)、現在の九州地方に西海道鎮台(本営小倉、分営博多・日田)の2鎮台を設置することを布告した。しかし、実際に部隊編成を行ったのは西海道鎮台のみであった。同年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により全国が明治政府の直轄となったが、同時に兵部省職員令が出され、北海道・石巻・東京・大阪・小倉の5鎮台制の構想が示された。しかし、他の地方と比べ人口が極端に少ない北海道では鎮台の設置が後回しとなった。結果、同年10月4日(明治4年8月20日)に旧2鎮台を廃止し、東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台が設置された。このときの鎮台は、御親兵から転じた者と、士族からの志願者で編成された。残る各藩常備兵は武装解除されることになる。
1873年に2つの鎮台が増設され、北海道を除く地域を、6軍管、14師管に分けた。軍管には鎮台、師管には営所が置かれた。新たに設けられたのは名古屋鎮台と広島鎮台で、大阪鎮台から北陸地方が名古屋鎮台に、中国・四国地方が広島鎮台にそれぞれ移管された。また、東北鎮台は仙台鎮台に、鎮西鎮台は熊本鎮台にと、都市名を冠する名に改めた。北海道には鎮台がなく、かわりに屯田兵が置かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%8F%B0
明治4年6月・・・25日、・・・三条実美右大臣・岩倉具視大納言・大久保参議らは、西郷・木戸の2人を参議として、他の参議は各省の長官(卿)に格下げし、新しい政府を作ろうとし<、>・・・閣議で<それを断行した。>・・・
<これに伴い、>兵部卿の有栖川宮熾仁と兵部少輔の山県も職を免じられることになった。
⇒飾り物だった有栖川宮らを解任するわけにもいかないので、こういう苦肉の策をとったのでしょうね。(太田)
<その後、>山県<は>兵部少輔(兵部卿・・・<も>大輔<も>・・・空席)に任じ<られた。>・・・
そのため山県は・・・<兵部>省のトップに立つことになった。
また7月1日、大久保・大隈ら7名が官制改正を審議する制度取調を命じられ、山県や井上馨の名もその中にあった(後に数人追加)。
以上のように廃藩を前にした制度改革の中で、山県のような少壮の人材にさらに実権が与えられようとした。・・・
7月14日、・・・廃藩置県<の>・・・詔が出た・・・。
この日、山県は兵部少輔から大輔(次官)に昇進した。・・・
山県は33歳になっていた。
兵部卿は欠員のままであったので、山県が兵部省の最高責任者であることは変わらなかった。・・・
<但し、>廃藩置県後、山県・井上・伊藤の3人はともに重要なポストを得た<とはいえ>、彼らの庇護者木戸の期待は、誰よりも伊藤にあった。
そのことは、位階の従(じゅ)四位に任じられたのが、伊藤が明治3年閏10月20日であるのに対し、山県が1年以上遅れて、翌年12月12日であることからもわかる。
山県が3歳年下の伊藤に比べて遅れをとった理由は、第一に、木戸から伊藤ほど気に入られていないことであった。
また、伊藤が英語に堪能かつ外国人との交際術に優れていたことで、大蔵省改革など常に最も重要な改革の中枢にいたことも、山県にとってハンディであった。
また、伊藤が井上馨と一緒にイギリスへ密航して以来非常に親しかったことも、山県にとって伊藤と対立した場合の弱みであった。
井上は伊藤より6歳近く年長であったが、伊藤と対等に助け合っていた。
山県にとって、伊藤は気になる存在であった。
しかし山県には、廃藩置県のときに力を発揮したように、西郷隆盛と親しいという強みがあった。
軍の中枢にいるというのも、いざ対決という際には一つの武器になった。」(84~87、89~90)
⇒維新政府は革命政府なのであって、その政府で軍を取り仕切っていて、しかも、互いに牽制関係にあったところの、同政府の突出した最有力派閥である、薩摩閥と長州閥、の両方に私見では属していた山縣は、派閥の長クラス以外で最も高い地位を与えられてしかるべきところなのに、長州閥の長の木戸から、山県が両派閥に両属していること等を疎まれ、足を引っ張られていた、ということでしょう。(太田)
(続く)