太田述正コラム#12826(2022.6.21)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その11)>(2022.9.13公開)
「・・・<しかし、結局、>山県が陸軍大輔を辞任したので、陸軍元帥兼参議西郷隆盛・参議大隈重信・大蔵大輔井上馨らは陸軍省が瓦解するのではないかと恐れた。
そこで三人は調停に動いた。
こうして・・・1873年4月・・・29日、山県は陸軍省御用掛として陸軍卿代理を命じられた・・・。
山県の再度の窮地に対し、山県が親しい軍人の西郷隆盛と、木戸がいない代わりに文官の大隈や井上が動いていることが注目される。
陸軍省の人事は、武官の中だけで方向づけられるものではなかった。
⇒「日本においては大宝律令以来、官吏を文官と武官に分離している。武官の職としては皇太子の護衛である帯刀舎人などがあった。束帯・冠も文官と形状が異なっていたが、後に兼官が多くなった。
江戸時代の旗本も文官的職務(役方)と武官的職務(番方)に別れて従事していた。
ただし、律令制や江戸時代においての文官・武官は完全に分かれていたわけではなく、人事異動によって文官から武官へまたその逆もあり得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%98
というわけですが、このことは「旗本」は「武士」で置き換えても基本的に成り立つはずであって、このあたりで登場する人物達は、皆、すぐ前まで武士だったのですから、就いたポストがたまたま文官的ポストだったり武官的ポストだったりしても、文官意識ないし武官意識を持っていた者がいたとは必ずしも思えません。(太田)
ところが、アメリカからイギリスに渡っていた木戸孝允は、西郷が参議兼近衛都督と元帥に任じられた人事に反対であった。
木戸は兵部省においても文官と武官は兼任すべきでない<(注15)>という意見を持っていた。
(注15)これは、当時、(シビリアン・コントロールなどという変わった考え方が存在した)米国にだけあった考え方だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Civilian_control_of_the_military
岩倉使節団の一員として渡欧米する前にも、山県にそのことを話している。
とりわけ、日本および欧州の例にみても、元帥は戦時の際に、天皇か親王が就くべきもので、臣下が就任するものではないと考えていた<(注16)>・・・。
(注16)これには、戊辰戦争の時の日本、と、プロイセンの事例
https://en.wikipedia.org/wiki/Generalfeldmarschall
があるだけであり、欧米中の君主諸国において、一般的な考え方だったとは言えない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Field_marshal ←全般
https://en.wikipedia.org/wiki/Field_marshal_(United_Kingdom) ←英国
木戸の意見は、日本の歴史においては大臣や参議は文官であり、文官が武官に対し、軍事以外の諸条件も考慮して大局を決定するのが望ましい、というものだった。
⇒繰り返しますが、前段は、当時の大臣や参議の意識とは多分異っていますし、後段は米国だけの話です。(太田)
木戸は伊藤などからイギリス等のシビリアン・コントロールについても聞いていたのであろう。
⇒伊藤之雄が、civilian control の英文ウィキペディアさえ、参照しなかったことを示しています。
木戸は、恐らく福澤諭吉あたりから、米国における、特異なシビリアン・コントロールなる概念、について話を聞いて、それだけが頭に入ってしまっていたに違いありません。(太田)
さらに維新直前の長州藩においても、政務座役など藩政の大枠を決める武士たちと、戦争の際の実際の軍事指揮官たちとはおおむね区別されていた。
⇒幕末に長州藩の政務座役(政務役たる右筆)
https://jpreki.com/mukunashitouta/
を交互に務めた、椋梨藤太と周布政之助についてですが、周布が禁門の変の時に軍事指揮官にならなかったのは派遣部隊が小規模だったからでしょうし、第一次長州征伐の時は、藩内で保守派が彼に対して事実上のクーデタを起こしたため出陣するどころではなかったのでしょうし、その後に再び政務役に復帰した椋梨は部隊を率いなければならないような機会が訪れないまま刑死した、
https://jpreki.com/mukunashitouta/
というわけであり、伊藤の主張には無理があります。(太田)
岩倉使節団が出発する前において、兵部省の官僚は、大輔、少輔(次官と次官クラス)や大丞・少丞(局長と課長クラス)など他省と同様で、中将・少将や大佐等の軍人の階級がついていなかった。
また、出発の3ヵ月前、8月に元帥が設置されるが、誰もまだ就任していなかった。
これは、木戸の意向を反映していたといえる。」(102~103)
⇒そういうことを言いたいのであれば、まず、当時の軍の部隊の兵員達に階級がついていたのかどうか、仮についていたとしていかなる階級がついていたのか、を、伊藤には記して欲しかったところです。(太田)
(続く)