太田述正コラム#12828(2022.6.22)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その12)>(2022.9.14公開)

 「それにもかかわらず、・・・明治5年(1872)3月に近衛兵が置かれた段階で、山県が陸軍大輔兼近衛都督・陸軍中将になるなどの軍制改革が行われた。
 これは、木戸の基準では文官と武官の区別をあいまいにするものであった。
 これは山城屋事件の前であるので、山県は文・武官を区別するという木戸の主張とは異なった考えを持っていたことがわかる。

⇒山県は、半可通に過ぎない、木戸のシビリアンコントロール論になど一顧も与えていなかったことでしょう。(太田)

 木戸にとって、山城屋事件の余波により西郷隆盛が参議兼任で近衛都督と陸軍元帥になったのは、さらに見過ごすことができなかった。
 これは、留守政府は日本国内の体制を大きく変更しないという、出発前に有力者たちが交わした約束をも破ることだった。・・・
 山県中将は陸軍卿(長官)代理に兼任されてから1ヵ月半にもならない1873年(明治6)6月8日、陸軍卿兼任を命じられた。
 13日、山県は兼官である陸軍卿を免じられることを求めたが。許されなかった。・・・
 この人事は参議の西郷隆盛が推進したに違いない。
 山県が5日後に陸軍卿の辞任を申し出たのは、木戸の留守中に西郷の推薦で卿にまで昇進したことで、木戸が帰国した後に木戸との関係が悪くなることを心配したのだろう。・・・
 <征韓論を巡る>木戸と西郷の対立が進展し、西郷の下野という事態が起こり、山県は、長州藩出身という義理から木戸を支持して動くのが自明であった。
 それにもかかわらず、尊敬し世話になった西郷と面と向かって対決するのがつらく、山県は積極的に動くことができなかったのだった。
 10月末には山県は病気にまでなってしまう・・・。
 これも、木戸への義理と西郷への刃傷に引き裂かれたストレスからであろう。
 山県は権力志向の強い人間だとみなすのが、一般の理解である。
 しかし征韓論政変の山県の動きから、山県の西郷への「優しさ」と、軍は政府から自立しているべきだという主義にこだわりを残す生真面目さがわかる。

⇒「軍は政府から自立しているべきだという主義」と「生真面目さ」とは何の関係もないのであって、前者は、山縣が、秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者、として、国民に真実を告げることなく、国民を動員することを目指していたためだ、というのが私の見方であるわけです。(コラム#省略)

 木戸は山県同様の優しさを持っており、山県の気持ちに気づいたと思われる。

⇒木戸に対し、「優し」いというズバリの評を私は知らない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
のですが・・。
 山県に至っては、そんな要素は皆無である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
と言ってよいでしょう。
 伊藤のこのくだりには、珍しく、典拠が付されていません。(太田)

 しかし、事は維新の成否を決する一大事である。
 山県の気持ちがわかっても、煮えきらない態度にあきれ、怒りすら覚えた。
 そのことは・・・、山県が伊藤と同時に参議に昇格できなかったことからわかる。
 征韓論政変で西郷・板垣など5人の参議が辞任したので、1873年10月25日に工務大輔の伊藤博文が参議兼工部卿に、海軍大輔の勝海舟(安芳、幕臣)が参議兼海軍卿に、28日に駐英公使寺島宗則(薩摩)が参議兼外務卿に就任、内閣の一員となった。
 三人はいずれも、大輔や公使という次官クラスで、卿(長官)の一つ下であった。
 ところが6月から陸軍卿になっていた山県は、参議になることができなかった。
 ・・・征韓論政変後、いわゆる大久保政権においても、山県陸軍卿は参議兼任を拒否して抵抗し、正院(大臣・参議)従属型の軍管理は実現しなかったとする研究もある(大島明子「一八七三(明治六)年のシビリアンコントロール」<(注17)>)。

 (注17)大島 明子 晃華学園中学・高等学校 「一八七三(明治六)年のシビリアンコントロール : 征韓論政変における軍と政治(The state of civilian control in 1873 : The political crisis over the invasion of Korea in relation to politics and the military)」(公益財団法人 史学会「史学雑誌 117 (7), 1219-1252, 2008」)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390001205137782272
 大島には、「明治初期太政官制における政軍関係 -留守政府正院と建軍期の陸軍-」(『紀尾井史学』11号、1991年12月)、も著している。
https://booklog.jp/author/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%98%8E%E5%AD%90

⇒政軍関係ならともかく、シビリアンコントロールという言葉を使っているような著作は読むに値しない、というのが、少し厳し過ぎるかもしれませんが、私の見解です。(太田)

 しかし、これは後の時代の自立した陸軍を前提として、山県が陸軍を掌握していると誤解し、この時代を見たために生じた誤りである。・・・」(103~106、109~110)

(続く)