太田述正コラム#12830(2022.6.23)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その13)>(2022.9.15公開)

 ・・・<結局、>山県は<1874年(明治7)・・・2月8日に陸軍卿を辞任し・・・た<。>・・・
 <しかし、>大久保は、内閣の意向を無視して独断で台湾に出兵するような西郷従道に陸軍を任せることに不安を覚え<、>・・・木戸の意向に反しても、山県を積極的に登用しようと考えた。・・・
 <こうして、>1874年(明治7)6月30日に山県は陸軍卿に復帰した。
 近衛都督や参謀局長は兼任のままであった。
 それに対し、同じ長州出身ながら山県と対立していた山田顕義は、7月5日に陸軍少将のまま司法大輔を兼任した。
 山田は軍籍を持っていたが、陸軍から出された形になった。
 これも大久保の意志だった・・・。
 こうして、陸軍省内の長州系の対立は一応解消した。・・・
 1874年(明治7)8月2日、・・・台湾出兵に反対して<の>・・・木戸辞任後の参議の補充と征韓論政変でやめた参議の補充を兼ねて、山県と、黒田清隆ら薩摩系2人が参議になった。・・・
 山県は36歳にして陸軍卿と近衛都督・参謀局長という要職を兼任し、参議として入閣できた。
 外見上、このことは山県にとって非常に喜ばしいことであったはずである。
 しかし、8月2日に後輩の伊藤は、大久保が清国に出張している間、内務卿を兼任することになったように、大久保の後継者としての地位を固めつつあった。
 そのことと、征韓論政変後の山県の体験や見聞から想像すれば、参議就任は山県にとって遅く来すぎた喜びであり、心から胸はずむことではなかったと思われる。・・・
 <なお、>最近までの研究<は>、・・・伊藤が大久保暗殺の前に後継者としての地位を固めていたことを、十分理解していない。・・・

⇒維新期の日本の政治指導者達は、ほぼ全員が公家か武家の出であり、最高権力は国内最強武力を動かすことができる者が保持している、と肌感覚で思っていました。
 ですから、維新直後は、薩摩と長州の軍事力を背景に、西郷/大久保と木戸孝允が共同最高権力者であることは自明であり、その彼らが、1871年(明治4年)7月14日に山縣を兵部省の事実上のトップにしたのは、彼らが、自分達の後継者として山縣を指名したと受け止められた、というのが私の見方です。
 そして、1877年(明治10年)に木戸と西郷が亡くなり、その翌年の1878年(明治11年)5月14日に今度は大久保までもが亡くなると、陸軍を引き続き牛耳っていた山縣が、予定通りですが、最高権力者と受け止められるようになり、その状態が、山縣が亡くなる1922年(大正11年)2月1日まで、実に44年弱にわたって続いた、というのが私の見解です。(各死亡年月日は、各人のウィキペディアによる。)
 ですから、大久保が単独の最高権力者と受け止められた期間は、1年にも満たなかったのであって、伊藤に至っては、単独の最高権力者と受け止められたことがないことはもちろんのこと、共同権力者の1人と受け止められたことすら一度もないはずである、ということになります。
 では、山縣の後は一体どうなったのでしょうか。
 たまたま、山縣は亡くなるまで陸軍を牛耳り続けたけれど、その頃までには、現実に、武力を動かすことができるかどうか、陸軍を牛耳っているかどうか、は最高権力者の必要条件と見なされなくなり、山縣が事実上指名したところの、西園寺公望が、山縣亡き後、最高権力者と見なされるようになり、西園寺亡き後には、更に西園寺が事実上指名したところの牧野伸顕が最高権力者と見なされるようになった、と、私は考えるに至っています。(太田)

 西郷隆盛が私学校派に荷担するかどうか–。
 大久保利通(参議)や松方正義(大蔵大輔〔次官〕、後の首相)・大山巌(陸軍少輔〔次官クラス〕、後の陸相)ら薩摩出身者はもちろん、岩倉具視(右大臣)や明治天皇も西郷を信頼し、彼が立ち上がることはないと思っていた・・・。
 しかし、山県の眼は確かだった。
 「西郷は固より此の騒動に与する考はなくとも、是迄の情誼に於ては、私学校党の徒が、必ず西郷を担ぎ出すに違ひが無い」と考えていた・・・。
 正確に予想できたのは、刃傷に流されやすい優しい性格という点で、山県は西郷と共通点があったからだった。」(117、123~124、136)

⇒伊藤は、木戸と山縣だけでなく、西郷も「優しい」人だとしていますが、人間主義者(縄文人)を優しい人と言い換えることができるところ、日本人の大半は人間主義者なのですから、伊藤は間違っているわけではない一方、では、まともな日本人で「優しい」人でない人はいないのですから、伊藤は意味のないことを言っている、ということになってしまいます。
 もう一つ問題があるのは、木戸も山縣も西郷も、武士出身であって縄文的弥生人なのですから、時と場合において、非人間主義的言動を行うことを躊躇しないことです。
 例えば、西郷は、関係者、非関係者の生命財産が失われることなど顧慮することなく、江戸薩摩藩邸の焼討事件を幕府側に引き起こさせることを狙った陰謀をやってのけた人物でしたよね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E9%82%B8%E3%81%AE%E7%84%BC%E8%A8%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 果たして、そんな西郷は、優しい人なのでしょうか、優しくない人なのでしょうか?(太田)

(続く)