太田述正コラム#12846(2022.7.1)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その19)>(2022.9.23公開)
「・・・ところで、1881年4月頃には、海軍にも参謀本部を設置し、海軍長老で参議の川村純義<(注25)>(すみよし)中将(前海軍卿)を「参謀長」に任じ、川村が海軍の実権を握るという構想があった。
(注25)「薩摩(鹿児島)藩士川村与十郎の長男,妻春子は明治初期の軍人篠原国幹の娘。国幹の妹は西郷隆盛の母であり,川村は隆盛に実弟のように可愛がられた。戊辰戦争では鳥羽伏見,熊谷,白河,会津に戦い,大きな功績をあげた。明治2(1869)年鹿児島知事島津忠義に従って上京,大久保利通の要請により村田新八と共に維新政府に起用され,11月兵部大丞となり,翌3年2月海軍掛,以後海軍のことに専従するようになった。4年兵部少輔に昇る。5年兵部省が廃止され,陸軍省,海軍省が成立,海軍卿および海軍大輔不在のまま海軍少輔に任じられた。その後旧幕臣の勝海舟が海軍大輔,次に海軍卿になったが,主要ポストを薩摩系が握る中で勝は象徴的存在にすぎず,川村が海軍の実質的指導者として諸事を取り仕切った。7年の台湾出兵以来,日本と清国の間に軍備競争が始まり,海軍大輔となった川村は大型艦3隻を<英国>に発注,東海鎮守府の横浜設置などを推進した。10年西南戦争が勃発すると,熊本,鹿児島に軍艦を行動させて薩軍に混乱を与え,八代に征討軍を上陸させて薩軍の熊本城包囲を解かせる一因を作った。翌11年勝に代わり海軍卿となったが,このときも補佐すべき海軍大輔,少輔が欠員のままであり,勢い川村の独断専行が批判されるに至った。特に薩摩系の重用,ずさんな計画,海軍省内の遅刻の常習などが目に余り,13年伊藤博文,山県有朋らの画策で更迭され,榎本武揚が後任となった。だが薩摩系軍人が榎本を忌避し続けたため,14年返り咲き,以後は綱紀引き締めに努めた。海軍創始期を担ったが,功績については評価が分かれる。18年伊藤内閣が成立すると海軍を離れざるをえず,枢密顧問官などを経て,34年昭和天皇,35年高松宮の御養育主任。死去後,大将に進級。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E7%B4%94%E7%BE%A9-48363
「1855年・・・に江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所へ一期生として、五代友厚などと共に薩摩藩より選抜されて入所。
西郷との縁もあって重用され、・・・1868年<の>・・・戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として各地、特に会津戦争に奮戦した。
戊辰戦争から薩摩に凱旋すると、門閥排斥の先頭に立った。純義は藩主・島津忠義の面前で藩主の弟の島津久治を戊辰戦争に出陣しなかった件で詰問し、その結果、気鬱(きうつ)を患った久治は後にピストルで自殺している。・・・
日本海軍で、戦死でなく死後大将に昇進したのは川村が唯一の例である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E7%B4%94%E7%BE%A9
⇒「注25」から分かるように、旧幕臣の勝海舟と榎本武揚を、前者は大久保利通が、後者は山縣有朋が、海軍卿に起用したのは、旧幕臣らの慰撫のためだったのだろうが、これは大久保や山縣のような、当時の日本の最高権力者が、日本が英国と島国という点では相通じる点はあれど、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者として、(欧州ならぬアジア)大陸経営を志向せざるをえないことから、海軍優位の英国とは違って「陸軍優位の日本軍を考えていた」(後出)ため、海軍を重視していなかったからでしょう。(太田)
山県参謀本部長は、海軍に参謀本部を設置するのは欧州でも例がないと、強く反対した。
⇒海軍国の英国には、国王はさておき、事実上の陸軍司令官と海軍司令官はいたけれど陸軍参謀本部も海軍参謀本部もなかった
https://en.wikipedia.org/wiki/Commander-in-Chief_of_the_Forces
https://en.wikipedia.org/wiki/First_Sea_Lord_and_Chief_of_the_Naval_Staff
一方、陸軍国の帝政ドイツには、事実上の陸軍司令官がその長であるところの陸軍参謀本部はあって
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%B1
も海軍参謀本部がなかった・・それは事実上の海軍司令官すらいなかったことを意味した・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_German_Navy
ことは確かです。
なお、大久保や山縣は、KY気味の川村を大して評価していなかったけれど、戊辰戦争の時の功に報いるべく、彼に対して過大な処遇をし続けた、ということでしょうが、どうして陸軍優位の軍事力整備を行うかについて、彼に本当の話をしたくなかったので、「欧州でも」といった形式的な理由を告げたのだと思います。(太田)
海軍士官たちは、左大臣の有栖川宮熾仁親王(陸軍大将)に設立を申し出たが、有栖川宮も必要ないとの意見であったので、実現しなかった・・・。
⇒お飾りではあったけれど、熱烈な秀吉流日蓮主義者であった有栖川宮熾仁親王(コラム#12833)に対しては、山縣は本当の話をしていたのではないでしょうか。(太田)
山県はあくまで陸軍優位の日本軍を考えていたのである。」(183)
(続く)