太田述正コラム#12852(2022.7.4)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その22)>(2022.9.26公開)
「1883年(明治16)8月4日、参議伊藤博文らの憲法調査団は帰国した。
その年の12月12日、内閣(参議)の各省担当について大きな異動があった。
山県は参事院議長を辞め、内務卿となった。
内務卿の山田顕義は司法卿となり、司法卿の大木喬任<(注30)>は文部卿に、文部卿の福岡孝弟<(注31)>(たかちか)は参事院議長となった。・・・
(注30)たかとう(1832~1899年)。「父は佐賀藩士大木知喬。・・・1850・・・年同藩国学者枝吉神陽を中心に神陽の弟二郎(のちの副島種臣),江藤新平らと共に,佐賀城外に楠木正成・正行父子の甲冑像を安置し,義祭同盟と称した。尊王論を唱え藩政改革を提唱したが,藩主鍋島直正の親幕的態度のため改革派は主流にはなれなかった。維新後,徴士となり参与職外国事務局判事,京都府判事,軍務官判事などに任じられた。その間,江藤新平と共に東京遷都を岩倉具視輔相に建言<。>・・・明治1(1868)・・・年12月東京府知事。その後,4年7月文部卿に就任し,5年学制を頒布した。6年4月参議,同10月司法卿に就任したが,征韓論には反対の立場をとった。9年の萩,神風連,秋月の乱には,平定後現地に出張し裁判処理に当たっている。その後,文部卿(のち大臣),元老院議長,枢密院議長などを歴任したが,誠実,廉潔,篤学な人柄のため,大きな政治力を有することはなかった。藩閥政府の中で副島種臣と共に肥前出身者の代表格として顕職をあてがわれた。第1議会には貴族院議長候補者として名前が挙げられたが,結局山県有朋首相の懇請により伊藤博文がその職に就いている。・・・25年12月枢密院議長を辞し,麝香間祗候となる。
伯爵」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E5%96%AC%E4%BB%BB-17857
(注31)1835~1919年。「土佐藩士・福岡孝順・・・の次男として生まれる。・・・1854年・・・、吉田東洋、に、>・・・後藤象二郎や岩崎弥太郎らと共に師事し・・・た。・・・1858年・・・、吉田の藩政復帰に伴って大監察に登用され、後藤らと若手革新勢力「新おこぜ組」を結成して藩政改革に取り組む<が、>・・・1862年・・・の吉田暗殺によって失脚する。
・・・1863年・・・、藩主・山内豊範の側役に就任して公武合体運動に尽力する。他方で坂本龍馬や海援隊、陸援隊と提携するなど、前藩主・山内容堂を中心に藩営商社・開成館を通じて殖産興業政策を推進した。
・・・1867年・・・、参政に就任。幕府を中心とする公議政体論を藩論とし、大政奉還の実現に向けて薩摩藩との間に薩土盟約を締結する。同年、後藤とともに将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧告し、武力討幕派の薩摩藩や長州藩に対抗した。
明治維新では、後藤や板垣らと共に徴士参与として新政府に出仕。越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。
・・・議事体裁取調所御用係を経て藩の少参事、権大参事。政府内では土佐閥の一人として、司法大輔に任ぜられた。司法大輔時代の明治5年11月23日(1872年12月23日)、司法卿の江藤新平と共同で、法律で妾を持つことを禁止すべきとの建白書を提出する。しかし、蓄妾は旧来の慣習であったため、建白はいつしか立ち消えとなって採用されることはなかった。その後、元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などの要職を歴任した。・・・
子爵」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%AD%9D%E5%BC%9F
⇒この「大きな異動」も山縣がやったということになります。
後に子爵にしか授爵されない程度の福岡に参事院議長を引き継いだのは、参事院の廃止(1885年12月)
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%82%E4%BA%8B%E9%99%A2-70718 前掲
を予定していて、それを福岡に実行させることが目的だったと思われます。
そして、山縣が内務卿に座ったことで、内務卿が事実上の首班と見なされるようになり、内務省が筆頭官庁と見なされるようになった、と私は見ています。(太田)
12月22日に太政官制を廃止し、新しい内閣制度が作られた。
初代首相には伊藤博文がなった。
内務卿の山縣が内務大臣になった。
井上は外務大臣、松方は大蔵大臣、大山は陸軍大臣、山田が司法大臣と、多くが太政官制の下での参議兼卿のポストと同じものに就任した。
この他、西郷従道(前農商務卿)が海軍大臣になった・・・。・・・
他方、参議とともに太政大臣・左大臣・右大臣(欠員)の職が廃止されたことに伴い、太政大臣の三条は天皇の補佐役である新設の内大臣に、左大臣の有栖川宮熾仁親王は参謀本部長になった。」(198~199)
⇒新設の内大臣と既設の参謀本部長のそれぞれのポストの重みを政府内外にアピールするために、山縣が行った人事でしょうね。
内大臣OBの牧野伸顕、と、参謀総長の杉山元のタッグで、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂戦争の最終フェーズたる対英米戦を遂行したことが想起されます。(太田)
(続く)