太田述正コラム#12858(2022.7.7)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その25)>(2022.9.29公開)
「・・・藩閥内でも、第一の伊藤、第二の黒田清隆(薩摩)に準じる第三の地位を確保し<てい>た・・・山県は・・・1886年に大枠を確定した陸軍についても、伊藤の支援と薩摩の大山の連携の下で、そこを離れていても十分に影響力を保つことができた。
また山県はそれを保証するため、陸軍次官(大輔)の座には腹心の桂太郎を、1885年5月から1891年6月まで6年間も座らせ続けた。・・・
⇒ここでも、伊藤之雄は、「藩閥内・・・の地位」・・意味不明ですが、事実上の権力者群の一人、という意味でしょう・・が、その中での序列が、伊藤>黒田>山縣、であるとしたことの根拠を示してくれていません。
勘ぐると、1885年12月に導入された内閣制の下で、初代首相に伊藤が就任し、次いで1888年に黒田が就任し、三条実美という「藩閥」外の人物が首相に就いた後、第4代の首相に山縣が就いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
ことから、彼は「逆算」したのではないでしょうか。
しかし、既述したように、そのような発想は誤りなのであり、軍、当時の日本の場合で言えば陸軍、を掌握している者が最高権力者なのであって、山縣がそうである以上、突出した山縣とそれ以外の権力者群との間に序列などつけられないのです。(太田)
山県有朋は1883年(明治16)12月12日に内務卿(参議兼任)になり、2年後に近代的内閣制度ができると引き続き内務大臣に就任、渡欧する1888年12月2日までの3年近くその職にあった。
内務卿・内相は、地方行政や治安維持を担当する重要閣僚である。・・・
⇒陸軍に加えて、警察も山縣の掌中にあったのですから、当時の日本国の全ゲヴァルトを山縣は行使できた上、中央施策の実行部隊である府県等の長であった全国の知事を指揮することまでできたのですから、山縣こそ、何度でも言いますが、当時の日本の事実上の最高権力者であること、が明々白々に誰にでも分かる状態だったわけです。。(太田)
山県<が>・・・腹心の清浦圭吾内務省警保局長に起草を急がせていた・・・保安条例<が>実施<され>た翌々日、1887年12月27日、伊藤首相は黒田清隆を誘って大隈重信に会合を求めていた・・・。
伊藤は大隈を入閣させ、黒田に政権を譲ろうとしたのである。
伊藤は大久保利通がが暗殺された後、10年近く政府のトップの座にいた。
もはや政権担当への意欲をなくしつつあった。
⇒自分が老いたことを自覚したような場合を除き、権力の座に飽きてその座の維持を望まなくなるような人間が、そもそも最高権力者になれるわけがありません。
そうではなくて、山縣が健在である限り、絶対に最高権力者になれない伊藤が、山縣に使われ続ける状態に耐えられなくなり、政府外の勢力と結託する形で、山縣から権力を奪取する方策を追求し始めた、ということだ、と私は受け止めています。(太田)
伊藤にとって、政権維持にこだわるより、日本の国のかたちを決める憲法制定に没入するほうがはるかに重要だった。
伊藤は、憲法調査の過程でイギリスも含め欧州の歴史を学んでいた。
大同団結運動<(注36)>のような国民の民主化要求運動が起こるのは時代のなりゆきであり、弾圧し続けることは無理であると判断したのだろう。
(注36)「後藤象二郎,星亨,中江兆民らによって進められた自由民権運動後期の政治運動。この運動は当初,星,中江らがおもに旧自由党員に「小異を捨て大同団結する」ことを求める呼びかけを起すことに始った。1884年10月29日の自由党解党,同年12月17日の改進党総理大隈重信,副総理河野敏鎌の改進党脱党という民権派分裂の再結集がはかられたものである。星,中江は86年10月24日東京で,翌87年5月15日大阪で全国有志懇親会を開き呼びかけを始めた。この間,87年5月9日板垣退助,後藤,大隈に伯爵が授与されたが,後藤は同10月3日,各派運動家を集め懇談,演説し,丁亥倶楽部を結成,大同団結を訴えた。翌4日各派有志の大懇親会が東京で開かれ,同月9~10日には各派連合演説会が同じく東京で開催され,各地の壮士は上京結集した。この状況を受けて同 29日には,諸県各派代表が東京に会合し,言論集会の自由,地租軽減,対等条約のいわゆる「三大事件建白運動」を申合せた。同月高知県代表は建白書を元老院に提出し,さらに同12月15日には2府18県の代表が建白書を提出する事態となった。政府はこれに対し同12月25日保安条例によって大弾圧を行い,400名以上の民権家を東京から追放し,さらに翌 88年2月大隈を入閣させ,運動の分裂を策した。これに対し後藤は,同年4月22日福島で東北有志の懇親会を開いたのを皮切りに同7月5日より8月末にかけて,信越,東北を,さらに同12月7日より翌年1月末まで東海,北陸を遊説,大同団結を説いた。また同88年6月機関誌『政論』を発刊,運動の継続をはかった。しかし89年2月帝国憲法が発布された直後の同3月突如,後藤が黒田内閣に入閣したため,この運動はその中心的存在を失い一挙に冷却することになった。後藤に去られた大同団結派は「同派綱領委員会」で政治結社を組織しようとする,河野広中ら政社派とゆるやかな連合を主張する,大井憲太郎ら非政社派に分裂。同5月10日前者は大同倶楽部を後者が大同協和会を結成,大同団結は霧消するにいたり,自由民権運動はその終焉を迎えた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%90%8C%E5%9B%A3%E7%B5%90%E9%81%8B%E5%8B%95-91686
そこで大隈と連携することにより、大同派の一角の立憲改進党系を切り崩そうとしたのだった。
また、井上馨が辞任後、伊藤自身が兼任している外相を大隈に譲り、行き詰っている条約改正交渉を進展させようとも考えたのであった。
遅くとも1888年1月25日までに、山県は大隈が伊藤内閣に入閣し、いずれ黒田が首相となる構想を知り、同じ長州出身の山田顕義法相とともに、伊藤にその構想をやめるよう強く進言した・・・。
しかし伊藤はそれを聞き入れず、山県は失望していった。
結局2月1日に大隈は外相として入閣し、4月30日に伊藤は首相を辞任、ほぼ同じ閣僚のまま黒田内閣が成立する。
このように、山県と伊藤の時勢感覚の違いは、保安条例施行後に明らかになっていった。
この差異は、政党への対応をめぐり初期議会以降に展開する2人の対立の萌芽であった。」(221、223~226)
⇒これも繰り返しになりますが、山縣と伊藤の対立の根源には、山縣らが伊藤を秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だとみなさず、従って、維新とそれに伴う国制の欧米化の手段性なる目的を明かさなかったという深刻な問題があったわけであり、それは言葉を換えて言えば、山縣らにとって伊藤は、日本の国制の欧米化実現のための便利屋以上の存在ではなく、いつでも使い捨て得る手駒に過ぎなかった、という、伊藤だけにとって片面的に深刻な問題だったわけです。
もとより、そんなことは、山縣らは、伊藤に対しておくびにも出さなかったはずですが、伊藤の方は、うすうす気がついていたのではないでしょうか。(太田)
(続く)