太田述正コラム#12860(2022.7.8)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その26)>(2022.9.30公開)

 「・・・山県は1888年(明治21)12月2日に日本を出発し、翌年10月2日に帰国するまで、欧米を視察した。
 89年1月11日にパリに着いた山県は、フランスの首脳と会見する。
 これはフランス人お雇い軍人を帰国させたことをめぐる、日仏間のわだかまりを洗い流すための外交的配慮だったと考えられる。
 山県にさらに鮮烈な印象を与えたのは、ブーランジェを中心とするポピュリスティックな反政府運動が盛りあがり、政治が一時的にひどく混乱した<(注37)>のを見聞したことであった。

 (注37)「普仏戦争の敗北によって課せられた賠償金及び一大鉱業地帯であるアルザス=ロレーヌ地方の喪失のために、フランスの国民感情はドイツに対する敵愾心が高まっていく傾向にあった。また、1882年に起こった金融恐慌のために、それまで上昇傾向であった景気が低迷し、工業生産は<米国>・ドイツに抜かれて世界第4位に転落する有様であった。また、帝国主義による植民地支配は拡大し、外債によって対外投資が増大するという問題点もあったことに加えて、ドイツでは時の宰相であるビスマルクがフランスを孤立させる外交方針を展開していた(ビスマルク体制を参照)ことから、対独ナショナリズムの高揚と強い政府を求める声が主張されていた。
 しかしながら当時の多党連立政権は明確な対策を打ち出すことができず、与党に対抗すべき社会主義政党も離合集散を繰り返しており広範の支持を得ることはできていない状況であった。一方王党派はブルボン朝支持派とオルレアン朝支持派の間に対立があり、こちらもまとまりを欠いていた。
 1886年1月、シャルル・ド・フレシネ内閣の陸軍大臣としてジョルジュ・ブーランジェ[(Georges Ernest Jean-Marie Boulanger(1837~1891年:「陸軍士官学校を出て1856年に陸軍に入隊し、アルジェリア、イタリア、コーチシナ、そして普仏戦争に歴戦し名声を得た。1880年に准将となり、1882年に国防省の歩兵司令官に任命され、彼は軍の改革者として名を馳せることになる。1884年にはチュニス占領軍司令官に任命されたが、駐在官との対立により召還された。パリに戻った後、ジョルジュ・クレマンソーと急進派(のちの急進党)を後ろ盾にして政界に名乗りを挙げた。」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7 
]が登用される。
 ブーランジェは時勢が共和派に有利となっていると判断し、彼らに迎合するかたちで兵制の民主的改革や王族の軍隊からの排除を行った。また、ドゥカズビル(fr:Decazeville)炭鉱における争議に対して軍隊の出動を求められた際には坑夫に同情的な態度を装い、議会において共和制護持の演説を展開し、共和主義者、特に急進派からの支持を大きく受け、「共和的将軍」としての名が高くなった。
 1886年12月には内閣がルネ・ゴブレ(René Goblet)に交代したが、ブーランジェは陸相に留まった。1887年4月20日、ドイツ国境においてフランスの一警察官がスパイ容疑で逮捕されるというシュネブレ事件が起き、独仏国境における緊張が高まった。ブーランジェは対独強硬論を主張し、ビスマルクをして独仏の友好にとって最大の危険人物と言わしめた。これによりブーランジェは対独を含めた排外的国民的感情を掌握し、「復讐将軍」「ビスマルクを尻込みさせた男」として人気を博し、右翼側からも広く受け入れられることとなった。
 1887年5月、内閣がモーリス・ルーヴィエ(Maurice Rouvier)に交代すると、ブーランジェの異常な人気を背景にした武断政治化に恐れをなした政府は、彼をクレルモン=フェランの軍団司令官に任命し、パリから遠ざけようと試みた。パリの民衆はこの処置に不満を抱きデモが繰り返され、7月8日の出発の際にはリヨン駅に1万人を超える群集が集まったほどである。
 その直後、大統領ジュール・グレヴィの女婿ヴィルソン(fr:Daniel Wilson)によるレジオンドヌール勲章売勲スキャンダル(fr:Scandale des décorations)が発覚。ルーヴィエ内閣は総辞職、グレヴィ自身も辞職せざるを得なくなった。これにより政府の権威は失墜し、これに反比例するように、ブーランジェに対する期待感が大きくなっていった。
 この情勢を見て取ったブーランジェは、ひそかに王党派やボナパルティストの指導者たちと会合を行い、反共和主義勢力とよしみを結ぶようになった。王党派は王政復古を、ボナパルト派はブーランジェのカリスマ性に帝政復活を期待していた事情があった。・・・
 ブーランジェは「議会解散、立憲議会、憲法改正」の三つのスローガンを掲げ、1889年1月27日にセーヌ県で行われた選挙に出馬、共和各派統一戦線の候補者に八万票の大差で圧勝した際には5万の群集が集まり、彼にクーデターの実行を指嗾するまでになった。
 ブーランジェ派の指導者たちは、当選決定の1月22日夜にブーランジェをエリゼ宮殿まで行進させ、示威行動とともに独裁権を奪取する計画を練っていた。が、肝心のブーランジェ本人が実行をためらったため計画は瓦解し、大衆の支持は急速に失われた。これによりフランス共和制は危機を脱した。その後、ブーランジェに逮捕状が発せられ、関係する組織は起訴されることとなった。身の危険を感じたブーランジェはベルギーに亡命し、彼を支持した勢力は急激に衰えていくことになる。
 ブーランジスムは議会外の民衆運動に依拠して、反議会主義、人民投票型民主主義を標榜し、左右の諸潮流を糾合した点でボナパルティズムに似通っている。ただし、その支持基盤が大都市と北部工業地帯にほぼ限定され、都市急進運動の色彩が濃厚だったところは異なっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 これによって山県は、「中央集権を国会に放任する」ことの弊害を強く感じたのであった・・・。
⇒それは、山縣の表向きの感想なのであって、私の想像では、ブーランジェがアルジェリアやコーチシナで植民地拡大戦争において活躍して名前を売った人物であったことから、改めて、日本における秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂戦争態勢の早期構築に向けて山縣は闘志を掻き立てたはずです。(太田)

 2月11日、山県は大日本帝国憲法の発布の日をフランスで迎え、「陛下万歳」と祝杯を挙げた。

⇒山縣にとって、憲法発布、その先にある国会開設がいかに些事であったかが分かろうというものです。(太田)

 同月17日、山県はパリからイタリアへ向かい、約一ヵ月を調査で過ごした。・・・
 その後ドイツへ向かい、3月18日にベルリンに到着する。・・・
 山県<は、>・・・グナイストから個人講義を受けた・・・。・・・
 5月中旬、山県はウィーンに向かう。・・・
 <そして、>シュタインから個人講義を受けた<。>・・・
山県はベルギー・イギリスからアメリカ合衆国を経て1889年10月2日に帰国した。・・・」(230~234)

⇒山縣の英国と米国での視察等の内容を知りたかったところです。(太田)

(続く)