太田述正コラム#1665(2007.2.19)
<パオリ・コルシカ・英国>(2007.3.19公開)

1 始めに

 コルシカ(Corsica)人というと、ナポレオンしか思い浮かべられない人が多いのではないかと思いますが、もう一人、忘れてはならない人物にパオリ(Pasquale di Paoli。1725??1807年)がいます。
 今年はパオリの没後200周年であり、英国やコルシカで彼を偲ぶ会が催されています。
 そこで、パオリについてご紹介することにしましょう。
(以下、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/6368641.stm
http://columbia.thefreedictionary.com/Paoli,+Pasquale
http://www.age-of-the-sage.org/historical/biography/paoli_corsica.html
http://www.pasqualepaoli.com/(いずれも2月19日アクセス)による。なお、一番最後の典拠は、コルシカの人々が立ち上げたサイトだと思われるが、英語版の英語のひどさは、すさまじい。他方、日本人は英語の綴りや文法にこだわりすぎる。)

2 パオリの生涯

 コルシカは、次々に新たな支配者を迎えましたが、18世紀にはイタリアのジェノア(Genoa)共和国の支配下にありました。
 ジェノアによる統治は過酷であり、1729年からコルシカで独立闘争が始まります。
 1735年にコルシカは独立を宣言し、世界初の近代的な憲法を制定し、6人制議会によってパオリの父Ghjacintu Paoliが大統領に選出されます。
 しかし、ジェノアによって独立は押しつぶされ、1739年に父はパオリらとともに亡命します。
 パオリはナポリで成長し、大学を卒業し、ナポリ軍の将校になります。
 1755年にパオリはコルシカに戻り、独立運動に身を投じ、いくつかのジェノアの要塞を除いてコルシカ全土を解放し、コルシカは同年独立を達成します。
 その年(一説には1762年)にパオリの肝いりでつくられたコルシカのリベラルな新憲法は、米国憲法に大きな影響を与えました。
 こういうわけで、米国には、パオリという名前の町がコロラド、インディァナ、ペンシルバニア州等に存在するのです。
 パオリはまた、コルシカ初めての大学を設置します。
 こうしてパオリは、欧州の寵児となり、ヴォルテール(Voltaire)やルソー(Rousseau)やヒューム(Hume)らの啓蒙思想家や欧州の啓蒙専制君主から絶賛され、英国人が書いたパオリの伝記は欧州全域にわたる最初のベストセラーとなるに至るのです。
 ところが、1768年にジェノアは絶対王制下のフランス・・1756年の7年戦争勃発とともにジェノアとフランスは事実上の同盟関係に入り、1764年にはフランスはコルシカに残されたジェノアの要塞を防衛するという条約をジェノアと結んでいた・・にコルシカを売却したため、今度はフランス軍がコルシカの独立を押しつぶしにかかります。
 健闘むなしく1769年にはコルシカ軍は敗北し、約300人の取り巻きとともに、パオリは英海軍の手助けでコルシカを脱出し、彼の尊敬置くあたわざる、そしてまた彼のシンパが最も沢山いたところの英国に亡命します。
 英国では国王がパオリに謁見を賜り、パオリには爾後多額の年金が与えられることになります。
 英国との7年戦争(1756??63年)における敗北と米独立戦争(1776??83年)への介入によって財政状況が悪化したフランスで1789年に革命が起きると、革命フランス政府は1790年にパオリを許し、1791年に彼をコルシカの知事に任命します。
 しかし、急進化し、中央集権化する革命フランスの中央政府とパオリは次第に袂を分かつこととなり、1793年にはフランス政府はパオリに逮捕状を発出します。これに対し、パオリは英国に助力を頼み、翌1794年にはフッド(Hood)提督率いる英艦隊によってコルシカのフランス軍は駆逐され、コルシカは三度び独立を果たすのです。
  パオリは、ただちに以前の憲法を復活させるのですが、一点、英国王を元首にいただくという修正を憲法に加えることによってコルシカを英国の保護国とします。
 ところが、パオリは、英国の副王(viceroy)またはコルシカ首相になろうとしたところ、英国は英国人の副王を派遣し、その副王はパオリの元腹心を首相に据えたため、居場所のなくなったパオリは1795年、再び英国に渡ります。
 その後、今度は親フランス派によってコルシカで反英独立運動が起きます。
 翌1796年、皮肉にもフランス革命政府のイタリア方面軍司令官に任命されたコルシカ出身のナポレオン(Napoleon Bonaparte。1769??1821年)・・その父親のCarlo Buonaparteはパオリの秘書だったことがある・・によって、英軍はコルシカからの撤退に追い込まれ、ここにコルシカの独立の希望は永久に絶たれることになるのです。
 1807年にパオリはロンドンで没し、英国の英雄並にその胸像がウェストミンスター寺院の中に設置されます。そして1889年になって、パオリの亡骸は、英海軍の艦艇に載せられて故郷のコルシカに移送されるのです。
 このコルシカでは、1970年代から再び武装独立闘争が始まっています。

3 感想

 イギリスの自由主義政体が最初に成文憲法化され採用されたのは18世紀のコルシカにおいてであり、それが米国憲法制定に大きな影響を及ぼし、ついには世界の大部分の国が憲法を持つに至ったことを考えれば、われわれはもっともっとパオリに注目すべきではないでしょうか。