太田述正コラム#12872(2022.7.14)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その32)>(2022.10.6公開)

 「・・・3月11日・・・、伊藤は勅諭によって枢密院議長の辞表を撤回し、この危機は去った。・・・
 <伊藤と山県>の仲が悪くなった原因は、政党等に対する時勢感覚に差があったのみならず、山縣が首相として第一議会を切り抜ける実績を挙げたので、自信をつけ、これまでのように伊藤に対し配下のような姿勢をとらなくなったからである。
 大久保利通が暗殺されて以来、伊藤は最有力者として10数年間も国政をリードしてきており、山県の威信が高まったことや、その態度が面白くなかった。

⇒伊藤が独り相撲をとっているだけであるにもかかわらず、これまで歴史学者等はそのことを見抜けなかった、というのが私見であるわけです。(太田)

 1892年(明治25)8月8日、松方内閣の後継内閣として、第二次伊藤内閣が成立した。
 この内閣は、山県(法相)はじめ井上馨(内相)・黒田清隆(逓相)・大山巌(陸相)ら、前首相の松方以外の藩閥最有力者が入閣した、「元勲総出」の内閣だった。
 また、自由党の星亨(ほしとおる)とつながりの深い陸奥宗光は念願の外相に就任、条約改正を目指しながら政党対策を担うことになった・・・。・・・
 松方首相が辞表を提出すると、天皇はまず伊藤・山県・黒田の三人に善後処置について下問した。
 その後、3人と井上・大山・山田顕義の6人が伊藤邸に会合、伊藤が政権を担当することを確認し、天皇が伊藤に組閣の命を下した。
 首相が辞表提出した後の善後処置について、天皇が複数(3人)の人物に下問するのは初めてのことであり、これが元老制度形式の始まりだった。
 元老とは、後継首相を天皇に推薦できる慣例的な機関である。
 山県は最初の3人のうちの1人となることで、その地位の高さを改めて確認された。・・・

⇒内大臣の三条実美が1891年2月18日に亡くなり、後任に、西園寺公望の実兄の徳大寺実則が2月21日に就任しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3%E5%BA%9C
山縣が西園寺を通じて徳大寺に、(最終的に西園寺を最後のただ一人の元老にする目的で)元老制度の導入を働きかけ、徳大寺が口先三寸で明治天皇を説得し、目晦ましのために、同天皇お気に入りの伊藤、と、長州藩出身者ばかりでは、と、枯れ木も山の賑わい的に薩摩藩出身の黒田、を元老に加えた、ということではないでしょうか。
 この企みに、企みのデパートの近衛忠煕(~1898年)・・西園寺及び徳大寺の出身の鷹司家の本家の近衛家の当主・・が、その孫で養子の篤麿(注45)(~1904年)と共に関与していたとしても私は驚きません。(太田)

 (注45)当時貴族院議員であった篤麿に、「明治天皇は内命をもって侍従長を介し・・・意見があれば何事も随意に奏聞するよう命じていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
 この侍従長も徳大寺実則(侍従長:1871~1877年、1884~1912年)だ。つまり、この時点では、内大臣を兼務していたわけだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3%E5%BA%9C 前掲

 日清戦争が始まる約10ヵ月前の1893年(明治26)10月に、山県有朋陸軍大将(枢密院議長)は「軍備意見書」で、欧州諸国への警戒を述べ、軍備、とりわけ海軍軍備の拡充を主張した。
 山県は、朝鮮ではいつ事件が起きても不思議ではなく、中国も露・仏・英に侵略されかけているとみた。
 また、今後10年以内に「東洋」で災いが起こり、その際に日本と敵になるものは中国・朝鮮ではなく、英・仏・露の三国であると論じた・・・。」(262~265、268)

⇒朝鮮については、現実の見通しであるのに対し、「また」以下は、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの世界観をオブラートに包んで宣明したものです。
 一つだけ不思議なのは、米国に関する言及がなさそうなことです。
 1899年に米国がフィリピンに対する侵略を開始する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%AF%94%E6%88%A6%E4%BA%89
ことを我々は知っているだけに・・。(太田)

(続く)