太田述正コラム#12878(2022.7.17)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その35)>(2022.10.9公開)
「・・・山県は病気のため途中で帰国したにもかかわらず、大山巌(第二軍司令官)・西郷従道(海相兼陸相)と共に、功二級金鵄勲章<(注49)>(年金1000円・・・)を授けられ、臣下の武官として最高の処遇を受けた。
(注49)「金鵄勲章の初の授与者は、日清戦争中に参謀総長として広島大本営に至るも、1895年(明治28年)1月15日に薨去した陸軍大将の有栖川宮熾仁親王である。熾仁親王は翌16日に大勲位菊花章頸飾と併せて功二級金鵄勲章を受章した。生存者授与としては、1895年8月5日に功二級金鵄勲章を大勲位菊花章頸飾と併せて受章した、陸軍大将当時の小松宮彰仁親王が初となる。功一級金鵄勲章の初授与は日清戦争ではなく日露戦争からであ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%B5%84%E5%8B%B2%E7%AB%A0#:~:text=%E9%87%91%E9%B5%84%E5%8B%B2%E7%AB%A0%EF%BC%88%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%97%E3%81%8F%E3%82%93,%E9%87%91%E9%B5%84%E7%AB%A0%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82
また2人と同様に旭日桐花大綬章を授けられた。
これは明治憲法発布の際に、新たに造られ伊藤のみに与えられた勲章で、臣下として最高のものだった。
西郷と大山は薩摩系の軍の最有力者であるので、この恩典授与は、軍人の有力者のバランスへの配慮からなされたといえる。
同じ日、文官の伊藤首相は、大勲位に叙せられ菊花大綬章を授けられた。
日本人で皇族以外に大勲位菊花大綬章が授与されるのは初めてであり、伊藤が恩典で臣下として最高の栄誉を与えられ続けているのは変わらなかった。
これに次いで、山県は伊藤・西郷・大山と共に伯爵から侯爵に陞爵した。
また天皇の特旨で、伊藤に10万円・・・、山県と西郷・大山らにそれぞれ3万円が与えられた。
山県ら3人は金鵄勲章の年金1000円があるとはいえ、金銭面でも伊藤は破格の扱いだった。
病気で第一軍司令官として職を全うできなかった山県は、またしても伊藤に差を開けられてしまった。
こんなことを考えつつも、山県は二番手として伊藤を補佐するのを、自分の運命として受け入れようとしたのだろう。・・・
⇒とんでもない。
2回目の「元勲優遇」の詔勅が山縣に下ったことで、山縣が事実上の最高権力者であることが明確にされたことで大傷心の伊藤の「暴発」を回避するため、山縣が、徳大寺実則を通じて、あの手この手で伊藤を懐柔しようとした、ということでしょう。(太田)
<明治29年(1896年)3月にはニコライ2世戴冠式出席のために日本を出国、米欧経由でロシアに到着し
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B 前掲
>、5月26日にニコライ2世の戴冠式に参列した。
その間、日露間の協商の交渉は、まず現地の事情を知っている小村寿太郎駐朝鮮公使とロシア側のウェバー駐朝鮮公使の間で始められ、5月14日、日露間で覚書が成立した。
その主旨は、朝鮮国に治安が回復するまで、日本の居留地や電信線保護のため最小限度の日本兵の駐兵を認めるが、ロシア側も日本兵の人数を超過しない兵を置くことができる等、朝鮮において日露は政治的に対等というものであった(1897年2月26日まで非公表)。<(注50)>
(注50)小村・ウェーバー協定。「内容は、日本とロシアが共同で朝鮮国の内政を監督し、ロシア公使館に滞留している朝鮮国王の還宮実現の条件として、日露両国軍隊の駐屯定員などを取り決めたものであった。これにより、日露両国は同数の兵力を朝鮮に駐留することが可能になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%91%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E5%8D%94%E5%AE%9A
山県は5月24日からロバノフ外相と秘密に会見し、朝鮮について日露協商の交渉を始めた。
ロシア側は、朝鮮国政府が自国の軍隊に依頼できるまで、ロシア政府が朝鮮国王の護衛兵を組織し訓練できることを要求してきた。
これでは朝鮮においてロシアが優位となってしまう。
山県はこの問題を後日の課題として見合わせておくことを提議し、それがだめなら協商を延期するつもりであった。
結局ロシアは山県の要望を受け入れ、6月9日、朝鮮において、日露は政治的に対等で、両国が他の列強に優先して関与できることを主旨とする山県–ロバノフ協定<(注51)>が成立した。」(285~286、298)
(注51)山縣・ロバノフ協定(Yamagata-Lobanov Agreement)。「朝鮮の独立を保証すること、朝鮮の財政改革を促進すること、近代的警察及び軍隊を組織すること、電信線を維持することについての合意がなされた。「利益線論」を唱えた山縣有朋は、交渉に際して朝鮮半島における日露の関係を対等なものにしようと図り、出兵に際しての駐兵地域を日露両国で定め、そのあいだに中立地帯を設けることを提案した。いわば、朝鮮を日露両国の勢力範囲に分割しようということであったが、その境界は、資料により大同江のあたりであるとかソウル付近であるとか一定しない。朝鮮を南北に分けるこの案について、ロシア側は駐兵地域はその場になってのちに決定すればよいとの判断から分割案を一蹴した。・・・
<・・>中立地帯構想はのちに日露戦争前、ロシアのロマン・ローゼン駐日公使から提議されることになる。<・・>・・・
しかし、この協定をもってしても、朝鮮半島におけるロシアの優位は動かなかった。
この協定は、1898年の西・ローゼン協定によって替えられた。
ニコライ2世の戴冠式には清国からは李鴻章も参列した。李鴻章とロバノフは密約を結び、日本に対する清国・ロシアの共同防衛とともに、シベリア鉄道の短絡線となる東清鉄道を清国領土内(西端の満洲里(マンチュリー)から東端の黒竜江省綏芬河(ポクラニチナヤ)まで)に敷設する権利も認めさせるなど、ロシアの満州における権益を大幅に認めさせた(露清密約)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%95%E5%8D%94%E5%AE%9A
「日清戦争<後、>・・・朝鮮半島への主導権に関する日露の緊張は増大し続けていた。
特に、ロシアは<駐韓>公使が・・・<ウ>ェーバーから・・・シュペイエル(スペイヤー)に交代し、朝鮮の財政権を握ろうと、朝鮮に英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンを解職し露国人キリル・アレキセーフ(Kiril A. Alexeev)に代えることを強要したため、英国側は東洋艦隊を仁川に出動させて抗議する事件が起きた(度支顧問事件) 。
このため、日英のみならず韓国においても排露派の勢力が増し・・・たため、ロシア帝国は軍事教官や財政顧問を引き上げる挙に出てい<たところ、>・・・1898年(明治31年)4月25日に・・・東京において・・・西・ローゼン協定(・・・Nishi-Rosen Agreement・・・)<が締結され、>・・・1.両国は韓国の独立を認め、韓国国内政治への直接的な干渉を差し控えること 2.韓国政府の依頼で軍事または財政顧問を送る前に、互いに事前承認を求めること 3.ロシアは韓国における日本の商工業の発展を認め、商用ならびに経済発展への日本の投資を妨害しないこと が合意された。
これにより、韓国が日本の勢力範囲になることを暗に認めて日本側の不満をやわらげ、代わりに、日本は満洲におけるロシアの勢力範囲を暗に認めたのであった。・・・
<西・ローゼン>協定ののちも、朝鮮半島をめぐる日露両国の対立はつづき、1899年から翌1900年にかけて双方が馬山浦およびその周辺の土地の買収を争って進める馬山浦事件が起こっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%AE%9A
⇒小村・ウェーバー協定→山縣・ロバノフ協定→西・ローゼン協定、と続いた日露間の外交的つばぜり合いの総指揮を執っていたのは、当然、山縣だったのであり、だからこそ、このプロセスの中で、山縣自身が表舞台に登場した、というのが私の見方です。(太田)
(続く)