太田述正コラム#12880(2022.7.18)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その36)>(2022.10.10公開)

 「・・・日清戦争後、伊藤博文首相と自由党の提携が進む一方で、松方正義(前首相・蔵相)・大隈重信(前外相、立憲改進党の党主格)らの提携も進んでいく。
 いずれも、ロシアに対抗できるような膨大な軍備拡張と、それを支える経済成長を達成するためには、政党や財界の協力が必要である、という考え方からである。

⇒伊藤博文だって横井小楠コンセンサス信奉者ではあったはずなので、日本の安全保障の観点から富国強兵を推進していたのでしょうし、松方や大隈は秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だったはず(コラム#省略)なので、当然、その観点から、やはり富国強兵を推進していたのでしょう。
 問題は、(松方については留保しますが、)伊藤も大隈も権力に対する野心という私心があったことであり、彼らが、世論を掻き立てた結果として、同コンセンサスの観点から好ましくない状態を日本に惹起させてしまうようなことがないか、山縣は心配していた、というのが私の見方です。(太田)

 それに対し、藩閥官僚たちは強く反対し、山県有朋に期待してその下に結集し始めた。 こうして1895年(明治28)11月頃から山県が渡欧している間にかけて、内務省を中心とした山県系官僚閥が形成されていく。

⇒私の口癖になった感がありますが、自然現象ではないのですから、山縣の留守中にかけて、この動きを中心として推進した人物がいたはずです。
 当時は第2次伊藤内閣であったところ、私は、1894年5月から外相を務め、10月からは文相も兼任したところの、西園寺公望
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%86%85%E9%96%A3
がその人物だったと見ています。(太田)

 1896年4月に、自由党の党首であった板垣退助が伊藤内閣の内相として入閣したことに、内務官僚たちは強く反発し、山県閥の形成が促進された・・・。
 山県が直接関与しないながら、山県系官僚閥の形成が進み、山県–ロバノフ協定で威信を回復したことで、山県は再び首相の最有力候補者の1人となっていった。・・・

⇒何度も申し上げているように、そうではなく、山県は一貫して事実上の最高権力者だったのであり、首相であること自体は事実上の最高権力者であることを意味しないので、伊藤之雄が一体何を言っているのか、私にはさっぱり分かりません。(太田)

1898年(明治31)1月から日露戦争海鮮迄、陸軍で最も重要なポストである陸相は、桂太郎・児玉源太郎・寺内正穀と、長州出身の山県有朋系の軍人が連続して占めるようになる。
 同時期の参謀総長は、川上操六・大山巌と薩摩出身の軍人であった。

⇒これも何度も申し上げているように、山縣は本籍長州藩現住所薩摩藩の人間なのですから、両藩出身者達に押しなべて影響力があったのです。(太田)

 ところで、1898年1月20日、川上が参謀総長に就任するのと同じ日に、元帥府が設置され、山県と小松宮彰仁親王・大山(以上陸軍)・西郷従道(海軍)の4人が元帥の称号を受けた。
 元帥は軍人の最高の地位で、終身現役である。
 1月12日、徳大寺実則(さねつね)侍従長兼内大臣が、元帥府設置についての詔勅案への、伊藤の問い合わせを山県に伝言している。

⇒この話、前にも登場したところの、山縣→徳大寺→明治天皇、というルートで天皇に鈴が付けられたことの傍証と言えますね。(太田)

 このことから、元帥府設置の過程に、実力元老伊藤博文首相ですら詔勅案が上奏されるまで、関与できなかったことがわかる・・・。

⇒これも何度も恐縮ですが、伊藤は山縣ほどの実力を持たない元老ですし、首相が事実上の最高権力者でもないのですから、伊藤が関与できない国の重大案件があっても少しもおかしくないのです。(太田)

 またその後桂陸相が、西郷従道海相と面談して良い結果を得た、と山県に報じているので・・・、山県は腹心の桂陸相にこの話を進めさせているといえる。
 このように、元帥府<(注52)>の設置や元帥の人選は、山県を中心に桂陸相・西郷海相・大山等で実質的に決められたのであろう。」(300、303~304)

 (注52)「元帥という名称は1872年(明治5年)に陸軍階級の一つとして採用されたが、翌年廃止され、それ以降日本の軍隊に元帥号は存在しなかった。
 1897年10月14日に参謀総長の小松宮彰仁親王が「マルシャル」の官職の設置などを含む上奏を行った。この上奏を受けて山縣有朋が元帥府条例を起案した。この背景には陸軍が世代交代期にあり、軍事顧問機関を設けることで山縣らを現役に留置することが必要と考えられた点があり、一方で軍制への抵触を避ける制度設計がなされた。山縣の案では漠然と「功臣」を列するとしていたが、伊藤博文によって軍事上の最高顧問と修正された。また、宮中席次について山縣案では大勲位の下位とされていたが、伊藤が御下問を受けた後に首相の次席に位置づけられることになった。
 1898年(明治31年)1月19日に「元帥府設置ノ詔」とともに裁可された。
 1945年(昭和20年)11月30日「元帥府条例等廃止ノ件」(昭和20年11月30日勅令第669号)により、廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%B8%A5%E5%BA%9C%E6%9D%A1%E4%BE%8B

⇒ここは、首肯できます。
 伊藤が、元帥、つまりは山縣、の格下げに、目の色を変え、髪を振り乱して奔走した姿が目に浮かびます。
 山縣は、恐らく、最初から伊藤用に案に切り代を付けていたのでしょう。(太田)

(続く)