太田述正コラム#12884(2022.7.20)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その38)>(2022.10.12公開)
「さて、大隈内閣の倒閣直前に、板垣内相ら旧自由党<(注56)>系は自派のみで憲政党<(注57)>大会を開き、憲政党を解散して旧自由党のみで新しい憲政党を組織していた。
(注56)「1881年に板垣退助らが結成した、日本最初の近代政党。・・・フランス流急進主義の影響のもと、一院制、民本主義、尊王論、選挙制度の構築などを掲げた。・・・1884年に急進派の行動を抑えきる事が出来ず解散した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC_1881-1884)
(注57)「帝国議会創設期の二大政党であった自由党(板垣退助総理)と進歩党(大隈重信党首)が、・・・1898年6月22日<、>・・・第6回衆議院議員総選挙を前に合同して、当時空前絶後の一大政党憲政党を結党した。この直後、藩閥側の中枢である元老会議は、選挙後も巨大勢力を維持することは確実の憲政党と対立しての政権運営は不可能と判断し、憲政党の板垣・大隈両名を首相に推挙する。これにより、史上初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)が発足する。
しかし、元々地盤や政治思想などの利害対立があった自由、進歩両党の合同による政党であったため、党運営、政権運営を巡って混乱が発生する。・・・大臣ポストの配分問題が引き金となり、旧自由党が旧進歩党を出し抜く形で憲政党を解党、同時に内閣からも閣僚を引き上げ、党、内閣ともに、約4か月の短命に終わった。
この時、憲政党の解党とともに、旧自由党のみで同名の別政党「憲政党」を新たに結成、党名を独占する形で自由党を復活させた。こちらの憲政党(自由派憲政党)は、旧自由党以来の縁であった伊藤博文の新党構想に党丸ごと参加する形で立憲政友会へと改組し、大正から昭和前期にかけての二大政党の一翼を担う。一方、出し抜かれた側の旧進歩党は、対抗して「憲政本党」を結成、政友会の後塵を拝する形となったが、離合集散を経て立憲同志会・憲政会時代には与党となり、その後は二大政党の一翼である立憲民政党を組織する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%85%9A
山県系官僚と旧自由党系は、大隈内閣末期から内閣を倒閣しようと、桂陸相と旧自由党の実力者星亨、伊藤巳代治(伊藤博文の腹心で自由党との関係が深い、前内閣書記官長)を中心に、ひそかに接触していた。
山県もそれを承認していた。
政党嫌いの山県は、大隈・旧進歩党<(注58)>系という強力な敵を倒すため、旧自由党系と提携しようとしていたのだった。
(注58)「1896年(明治29年)3月1日、立憲改進党・立憲革新党・大手倶楽部・帝国財政革新会・中国進歩党などが合同して代議士99名で結成。大隈重信が事実上の党首であったが正式な役職には就かず、形式的には犬養毅・尾崎行雄・大東義徹・柴四朗(東海散士)・長谷場純孝の5名の総務委員が代表者となっていた。「国権拡張」「責任内閣」「財政整理」などを掲げた。大隈の人気と同党が掲げた対外硬路線に対する支持から結成直後に党員5万人を数え、更に同年成立した第2次松方内閣に大隈が外務大臣として入閣し、高橋健三が内閣書記官長、神鞭知常が法制局長官に任命されたことなど党幹部の政府入りが実現したことで、更に期待が高まって同年中に1万人の入党者があったとされている。
新聞紙条例の改正や金本位制の実現などの成果があったが、松方の政治基盤である薩摩閥との対立と地租増徴に対する反発から、翌年10月に政権を離脱した。
1897年11月2日、外務省参事官尾崎行雄、農商務省商務局長箕浦勝人、山林局長志賀重昂、鉱山局長肥塚龍ら、進歩党出身官吏が懲戒免官。(政府と絶縁した同党会議に出席したことが理由)。
1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙では議席を103に伸ばしたものの、同年の自由党との合同によって憲政党結成に伴い解散。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E6%AD%A9%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC_1896-1898)
(参考1)「立憲改進党は、・・・1882年から1896年まで存在した。略称は改進党。初代総理(党首)は大隈重信、副総理は河野敏鎌。・・・趣意書に「王室の尊栄と人民の幸福」のために急激な変革を避け漸進的に改良するとあり、イギリス流の立憲君主政治を目指した、と言われる。また、急進主義的な自由党に対抗し漸進主義を採ることを標榜し、都市商業資本家・産業資本家・知識人らを支持基盤とした。・・・
日清戦争では国権拡張を主張した。これによって急激に支持を広げて自由党に対しては劣勢であった党勢を回復するに至る。1896年3月1日、立憲革新党・大手倶楽部等国権派と合同して進歩党を結成し、正式に解党した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%B9%E9%80%B2%E5%85%9A
(参考2)「政友会<は、>・・・1900年(明治33年)、政党内閣制の確立を企図した伊藤博文の議会与党として、結党された。結党直後の第4次伊藤内閣を筆頭に、数代にわたって内閣を組織して政権を担った。・・・
政友会の特徴は同党の成立趣意書にもあるように、・・・「余等同志は国家に対する政党の責任を重んじ、専ら公益を目的として行動」するのであって、・・・「国運を進め文明を扶植」するため与論を指導し、地方公共施設の建設にも公益を最優先させる「国家公党」を謳った点である。立憲政友党ではなく「会」を称したのも、国家利益の優先や国家との一体感を強調する初代総裁・伊藤博文の政党観に由来するもので、政党に対する国家の優位性を表している。国民の私的な利益を追求する民党を政党と言うならば、政友会はこれらを抑える「反政党」的な政党だった。
当時次第に増加していた実業家たちを積極的に取り込むことで商工業ひいては国家の発展を目指した伊藤は、従来は地主だったが寄生地主化して実業家になり都市部に住むようになった市議会議員・商業会議所の会頭・会社社長・弁護士・銀行頭取などに入党を勧誘した。西園寺内閣下では鉄道の国有化や新設、築港、学校建設など積極政策を展開し、その利権投与によって党員や周辺の民衆を惹き付けて党勢拡張に成功。三井財閥、安田財閥、渋沢財閥などの大財閥の支持も得た。その上で、個人の権利自由の保全や友好外交、国防充実、教育振興、産業発展、交通網の充実などを掲げた。特に犬養総裁時代では経済を中心とする平和的な対外政策「産業立国主義」が標榜された。他方、政友会の主力な支持基盤に地方の地主がいたこともあって、地方自治の尊重や地方分権も掲げられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A
また憲法を停止できない以上、地租増税を実現するためには、現実問題として、衆議院の二大政党の一つと提携する必要があるのはやむを得ない、と山県自身も考えるようになったのである。
山県内閣と新しい憲政党(旧自由党系)の提携は、1898年(明治31)11月29日に成立した。
翌30日、山県首相は憲政党員を首相官邸に招いて茶話会を開き、「国家歳入の基礎を確実」にする等、提携成立の趣旨を声明した・・・。」(306~307)
⇒極度に単純化して言えば、山縣は、巨大政党であった憲政党の分裂工作を行って二大政党制へと誘導した上で、分裂した片割れの自由派憲政党を与党として第2次山県内閣(1898~1900年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 前掲
を運営しつつ、同党に西園寺を送り込んで、自由派憲政党を「国家公党」・・秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者党!・・たる立憲政友会へと改組させた上で、伊藤博文を同党総裁に担ぎ上げる形で、いわば、伊藤をエージェントとして、衆議院をコントロールできるようにすると共に、伊藤の国民世論全体との「結託」を防止することにより、伊藤の野望の抑制に成功した、というわけです。(太田)
(続く)