伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その39)
太田述正コラム#12886(2022.7.21)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その39)>(2022.10.13公開)
「・・・山県内閣は、まず地租を地価の2.5%から3.3パーセント(1.32倍の増税)とし増税を1899年から5年間に限定する・・・地租増徴法案<を>憲政党・国民協会などの賛成で衆議院を通過<させ>、12月27日に貴族院も通過<させ>た。<(注59)>
(注59)「1898年6月7日、衆議院、地租増徴案を委員会で否決、本会議に上程、3日間の停会を命じられる。6月10日、自由・進歩両党、提携して地租増徴案を否決。衆議院、解散を命じられる。12月10日、貴族院議員谷干城ら、地租増徴反対同盟会を結成し檄文を発表、12月15日、芝紅葉館で大会を開き、解散を命じられる。12月13日、渋沢栄一ら、東京で地租増徴期成同盟会を組織。12月30日、地租条例改正公布、田畑地租を地価の2.5%から3.3%に増加する、日清戦争後第2次増税の一環。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%A7%9F%E6%9D%A1%E4%BE%8B
⇒渋沢栄一(1840~1931年)が山縣有朋(1838~1922年)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67448?page=3
に、「注59」に出てくるような形で協力していたというのは私には初耳であるところ、考えてみれば、渋沢は、徳川慶喜という秀吉流日蓮主義者に仕え、慶喜の引退後もその謦咳に長く接したわけであり、山縣と同世代人であったということもあって、両者の間に交流があっても不思議ではなく、現に、「山縣有朋は、当初、渋沢栄一が牧場経営を目的として官有地の払い下げを計画していた天然林150町歩、草山600町歩を譲り受け<(注60)>、「農は国家経済の基本」というポリシーを、・・・那須野ヶ原西部に隣接する伊佐野<において、>・・・自ら実践しようとした」
https://tabi-mag.jp/tg0185/
ことがあるくらいなのですから、渋沢が山縣の国家施策の実現に向けて協力したとしても少しも不思議ではありません。(太田)
(注60)「山縣有朋は、1869年(明治2年)から1870年(明治3年)にかけて欧米事情視察のため渡欧し、ドイツで貴族が田園に農場をかまえ、農業・林業経営に当たるという貴族農場を見て感銘を受ける。
政府が那須野が原の広大な第三種官有地を払い下げることになったとき、当時ここを開拓すべく大農場を開いたのは、栃木県令三島通庸をはじめ、青木周蔵、山田顕義、大山巌、西郷従道、松方正義、佐野常民、品川弥二郎、戸田氏共、毛利元敏、鍋島直大など錚々たる面々であった。有朋も那須ヶ原への入植を希望したが、平地のほとんどはすでに他の高官や旧藩主らによりおさえられていた。
有朋は、渋沢栄一が払い下げを希望しながら地元の反対で断念した那須野が原西部に隣接する伊佐野(現矢板市伊佐野)について、許可を譲り受け、地元の同意を取り付けて払い下げにこぎつけ、1886年(明治19年)、伊佐野農場(のちの山縣農場)を開くに至る。山縣が払い下げで得た土地はおよそ「自然林150町歩、草山600町歩」で、その多くは山林であった。・・・
<ちなみに、>伊佐野は明治維新までは地元の入会地であって、明治になってから官有地に繰り入れられたものの、地元民にとっては依然として落ち葉・草・薪を得る場所であり続けていた。山縣はこの権利を保障し、払い下げについて地元の了解を取り付けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E8%BE%B2%E5%A0%B4
大隈内閣の失敗の後という幸運があったとはいえ、山縣は伊藤も松方も実現できなかった地租増税を実現したのだった。
山県は地租増徴法案が成立した見返りとして、憲政党側が求めていた地方制度改革案を提出、貴族院を説得し、1899年3月6日に帝国議会で成立させた。
その結果、これまで府県会議員と郡会議員の選挙は複選制だったのを改め、制限選挙ではあるものの、有権者による直接選挙とした。
複選とは、府県会議員・郡会議員を市町村民に直接選挙させないで、市町村などの議員に「なった者に選挙権を与えて府県会・郡会の議員を選出させる制度である。
また、郡会議員の定数の3分の1を、地価1万円・・・以上の大地主で互選した議員に与える制度も廃止した・・・。
山県は、ロシアに対抗するための軍拡の財源を確保するため、地方自治制度で憲政党に譲ったのだった。」(308~309)
⇒欧米流の地方自治制度も議会制も、山縣は、早い時点より、全国民から、すなわち、庶民以外の国民からも徴税し、武士以外の国民からも徴兵する、ためには必須であること、換言すれば、それらもまた、戦争遂行のための国家機構の不可欠な構成要素群であること、を自覚しており、なおかつそれらを漸進的に欧米諸国も目指していた普通選挙によるものへと持っていこうとしていたのであり、憲政党に譲るとか譲らないとかいう話ではなかった、というのが私の見方です。(太田)
(続く)