太田述正コラム#12892(2022.7.24)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その42)>(2022.10.16公開)
「翌1900(明治33)6にな<って>勢いを増し<た>・・・義和団の乱で、清国や同国における列強の秩序が大きく変わる恐れがある。
7月5日朝、山県が拝謁すると、・・・山県が第二次内閣を危なげなく運営していたにもかかわらず、・・・明治天皇は清国問題について元老伊藤に相談するように命じた。・・・
⇒戦争嫌いの明治天皇は、山縣ほど軍拡に熱心ではなく、また平和志向であった伊藤に対し、山縣に比して、より親近感を抱いていたのでしょう。(太田)
8月14日には日本を含めた8ヵ国連合軍が北京に入り、連合国軍出兵の目的は達成された。
すると8月22日、伊藤は出兵の目的は達せられたと、山県首相と青木外相に、列強に向かって撤兵を提議すべきだと勧告した。
しかし山県らは応じなかった。
北京周辺に駐兵することで、日本の発言力を増し、場合によれば大陸における勢力圏拡張に役立てようと考えたからである・・・。
また8月下旬には、アモイ(厦門)事件<(注65)>も起こった。・・・
(注65)「1900年(明治33年)8月24日から9月7日にかけて清国(当時)福建省廈門に対し、台湾総督府が陸軍を上陸させようとし未遂に終わった事件である。
<1900>年8月ごろ北京天津地域におきていた義和団事件は、列国各軍が北京城内の公使館区域を解放するなどして最終段階にあった。しかし、これに先立つ7月中旬よりロシアが中国東北地方での主要都市の占拠作戦を開始する一方、上海では、英仏両国が居留民保護を掲げ、陸兵を上陸させるなどしており、<支那>大陸全体の情勢は義和団事件後の勢力圏拡大競争における勢力争いに移行していた。
8月10日に廈門占領を閣議決定する。・・・8月24日早朝廈門市市街地の東本願寺布教所が焼失したため、台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平が治安維持の名目で海軍陸戦隊[二個小隊<(316)>]を上陸させ廈門を軍事占領させようとした。この放火自体も謀略性の強いものであったとされる。その後、廈門駐在日本領事からの出兵要請により、台湾駐屯軍事部隊を廈門に向けて出発させた。
この廈門占領は、英国・米国・ドイツの疑惑を呼び各国の領事は強く抗議した。とくに英国はこれに対抗して軍艦より水兵隊を上陸させた。・・・
<結局、>児玉は・・・陸兵隊を乗せた輸送船を引き返させた。海軍陸戦隊も各国領事との協議のもと撤兵した。列強各国の意図は、日本の福建省への勢力拡大を好ましく思わなかったことと、清国の南方諸総督が南清秩序維持協定を締結して戦闘区域を北清に限定していた状況を保ちたいという意図があった。一方日本は、義和団事件鎮圧を通じて生じていた列強各国との関係を崩したくないという意図が働いた。・・・
その後<、>・・・台湾総督府による福建省等南清への勢力拡大の意図は、軍事面でなく経済面で行うという「対岸経営」が行われることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%88%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
山県首相は、8月20日付で「北清事変善後策」を執筆している。
そこでは、列強による中国分割は将来必ず起きるので、前もって日本の勢力範囲を確保する必要があると見ていた。
そして、その範囲として福建・浙江両省を挙げていた。
山県首相には・・・台湾の対岸にあたる清国の福建省を支配しようとし<ていたところの、>・・・児玉源太郎台湾総督(山県系官僚閥の陸軍軍人)・・・らの提言に同意する素地があるが、他方山県は列強から孤立することを恐れる志向も強かった。
その後、イギリスを始め列強が、日本軍のアモイからの撤兵を要求し、児玉らはアモイ占領に固執したが、事件の真相を知った元老伊藤は撤兵を強く求め、山県内閣や軍中央もこれに応じ、日本軍は撤兵した・・・。・・・
その間、7月中旬になると、ロシアの駐日公使のイズヴォルスキー<(注66)>や駐韓公使のパブロフは、元老伊藤や日本の駐韓公使に、義和団の乱が満州から韓国に飛び火した場合には、韓国内で日露の勢力範囲を分けようと提案した。<(注67)>
(注66)Alexandr Petrovich Izvolskii(1856~1919年)。「1894年から1906年にかけて、バチカン、セルビア、バイエルン、日本、デンマークの各公使を歴任した。日本公使時代には、清国で義和団の乱が起こっており、イズヴォリスキーは日本に対し、日露両国による大韓帝国の分割を提案している。その後、1906年にはストルイピン首相の下で外務大臣に就任した。イズヴォリスキーは親英、親独の外交路線をとり、外交面からストルイピン体制、ストルイピン改革を支えた。特にイズヴォリスキーは、英露間の友好関係構築に尽力し1907年英露協商を締結することに成功している。1905年の日露戦争敗北後のロシアにあって、イラン、アフガニスタン、チベットにおける両国の勢力範囲を決定した。また、ロシア黒海艦隊のボスポラス海峡通過権を獲得した。英露両国の対立関係は解消し、ドイツの3B政策に対処することになる。
1908年オーストリア外相アロイス・レクサ・フォン・エーレンタールとボスニア・ヘルツェゴビナをめぐり外交交渉に臨むが、オーストリア・ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナを併合し外交的敗北を喫した。このボスニア・ヘルツェゴビナ併合が、ロシアの汎スラヴ主義、セルビアの大セルビア主義を刺激することとなった。また、オーストリア国内においては、民族問題が一層複雑化することとなり、後の第一次世界大戦の遠因を作ることとなる。
1910年9月に外相を解任され、フランス大使となる。ロシア革命の勃発後もフランスにとどまって亡命者となり、同国で没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
(注67)「近衛篤麿らは伊藤博文にこれを拒絶するよう圧力をかけている。」(上掲)
これに対し、伊藤・井上馨両元老は、交渉に応じようとした。
しかし山県首相は、満韓交換によって韓国全部を日本の勢力範囲に入れることを目標としており、韓国で日露両国の勢力範囲を分割することに反対であった。
青木外相はさらに強硬で、対露開戦も辞さないと唱えた。
こうして、韓国で日露が勢力範囲を分ける話はそれ以上進展しなかった・・・。
山県が韓国の問題になると、このように強気になったのは、日清戦争後の軍備拡張がなんとか成功し、陸海軍備が飛躍的に強化されていたからである。」(315~318)
⇒「注67」からも分かるように、近衛篤麿は「野」にあって、政府部内にあった山縣有朋と密接な連携行動を取っていたことが分かります。
また、伊藤のみならず、井上もまた、蚊帳の外であったことも・・。(太田)
(続く)