太田述正コラム#12906(2022.7.31)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その49)>(2022.10.23公開)

 「・・・日清戦争に比べ日露戦争では、戦没者の数が飛躍的に増加し、日本軍だけで8万8000人にものぼった。
 山県より14歳若い明治天皇は、このことに心を痛め、1人ひとりの戦死者の名を読み、悲しみを和歌にした・・・。<(注79)>

 (注79)「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ
 日露戦争直前に戦争回避と平和を望んだ<明治天皇>の御製」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「日露戦争の『宣戦の詔勅』に続いて作成された詔勅草案は、「信教の自由」と「戦争の不幸」を強調していたが、大臣らの署名がないまま公布されなかった。」(河村一彦『歴史の回想・大津事件』68頁 より)
https://books.google.co.jp/books?id=T9FDEAAAQBAJ&pg=PA1&lpg=PA1&dq=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%9B%9E%E6%83%B3%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6&source=bl&ots=1P-kFI5D12&sig=ACfU3U0L7oRToZ6gebs78M1PfW8oNmYxbg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjotJ3SsqL5AhXDBIgKHYWIAU4Q6AF6BAhBEAM#v=onepage&q=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%9B%9E%E6%83%B3%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6&f=false

⇒明治天皇は、「注79」からも分かるように、平和主義者だったので、戦死者に心を痛めたわけですが、注意すべきは、「1人ひとりの戦死者の名」からして、心を痛めた対象は日本兵の戦死者だけにとどまっていたことです。
 同天皇は、父親の孝明天皇と同様に「西洋の文物に対しては懐疑的」であって
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
平和的手段で攘夷を行いたかったところの、この父親の世界観に基本的に羈束された生涯を送ったと言ってよいでしょう。(太田)

 同じく和歌を趣味とした山県はどのようにこの現実を受け止めたのだろうか。
 ポーツマス講和会議が始まる前、7月中旬から末にかけて、山縣は満州の戦跡を巡視し、次のような歌などを詠んでいる。
 おおつゝの音はるかにもきこゆなり手綱とる手のひたりなゝめに(大砲の音が遠くからも聞こえてくる。手綱を持った手の左斜めの方向だ)・・・
 戦勝の確定した段階であったのに、山県の和歌には犠牲になった多くの将兵に対する心の痛みがまったく表れてこない。
 山県は日露戦争後に功成り名をとげたが、明治天皇ですら持ち続けている、普通の人間が持つ感受性を失いつつあった。
 山県には現実に起きていることよりも、維新の途中で倒れていった志士たちへの責任感<(注80)>のほうが強かったのであろうか。」(351~352)

 (注80)「戊辰戦争(北越戦争・会津戦争)で・・・朝日山の戦いで奇兵隊を率いた友人の時山直八を立見率いる雷神隊に討ち取られ、山縣は衝撃のあまり涙を流したと伝えられる。・・・
 山縣は時山の死を後悔し、現場の苦戦している様子を和歌で詠み「あだ守る砦のかがり影ふけて 夏も身にしむ越の山風」と長歎したといわれる。また後年に時山の墓を詣で、記念碑を建てる話が上がると碑文を書き、日露戦争前にも時山の死を思い出している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B

⇒「注79」からも分かるように、山縣は、日露戦争直前に戊辰戦争の時の戦友を思い出したというのですから、「普通の人間が持つ感受性を失」っていなかったことは明白です。
 それどころか、明治天皇とは違って、山縣は「普通の人間が持つ」以上の「感受性」を持っていたからこそ、秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者として、アジア、ひいては全世界の解放、という人間主義的な目標の達成を目指して、日本をしてその途上の難所である日露戦争を成功裏に乗り越えさせたのです。
 そんな山縣が、彼我の戦死者や、巻き添えになった朝鮮半島や満州の人々への哀悼の念を抱かなかったはずがありません。
 「志士たちへの責任感」と書いた伊藤之雄の念頭には時山のことがあったのでしょうが、「維新の途中で倒れていった志士たちへの責任感」の前に、「山縣自身を含めた秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達が率いて遂行した」という修飾語句をつければ、結果的に、伊藤の文面は間違ってはいないということになりそうです。(太田)

(続く)