太田述正コラム#12910(2022.8.2)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その51)>(2022.10.25公開)

 「・・・帝室制度調査局<(注82)>総裁の伊藤博文の意を受け、伊東巳代治<(注83)>(みよじ)は勅令の文書様式を定めた公式令を立案し、それが1907年2月1日に公布された。

 (注82)「伊藤博文は・・・1898年(明治31年)2月9日に明治天皇へ意見書を上奏した。内容は皇室に関する10ヶ条の意見を記し、皇族待遇および臣籍降下、皇室財産の規定、爵位の取り決め、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の養育など皇室典範の不備を指摘した上で増加・補正をすべきと呼びかけた。この時は嘉仁親王養育だけ実現したが(伊藤が推薦した有栖川宮威仁親王が嘉仁親王の賓友(後に東宮輔導)に選ばれるなど)、1899年(明治32年)に伊藤は再度皇室改革を上奏、これを受け入れた明治天皇の命令により8月24日に帝室制度調査局が宮内省(宮中)に設置され、伊藤を総裁としたスタッフは皇室典範増補に取り掛かった。
 しかし、伊藤が翌1900年(明治33年)9月15日に立憲政友会を立ち上げると宮中・府中分離の都合上両方に属する訳にはいかないため、伊藤は調査局を離れ副総裁の土方久元が総裁に昇格したが、調査局の活動は停滞、本格的な立案は伊藤が総裁として調査局へ戻る1903年(明治36年)7月16日までかかった。その際、伊藤の側近で副総裁に就任した伊東巳代治が有賀長雄を調査局に加入させ、皇室典範増補は有賀を主として形作られていった。
 また、法律の公布形式を定めた公文式の改正も行われ、1906年(明治39年)に内閣総理大臣西園寺公望へ提出し枢密院会議で議決した末、翌1907年(明治40年)2月1日に先に公文式を廃止して新たに公式令が公布、皇室典範増補も枢密院会議を経て2月11日に公布、同日に役目を終えた調査局は廃止された。そして伊藤らは天皇から褒美を賜り、皇族会議令、登極令、摂政令、皇族財産令など順次皇室令が制定・補完されていった。ただしまだ皇室令に追加の余地は残っており、調査局副総裁だった伊東が1916年(大正5年)に建議した案を元に皇室制度調査機関である帝室制度審議会が設置、皇室関係の各法案を再調査・修正した上で請願令などが追加で公布、1926年(大正15年)10月27日に審議会が廃止されるまで皇室令の完成は時間がかかることになる。
 有賀<によれば>・・・、調査局は皇室の制度化による政治からの分離と首相の内閣に対する権限強化を目的として皇室典範増補と公式令を制定したとされる。それによると、有賀は憲法第4条で天皇の権利を制限していることを重視して、皇室令を通して天皇非政治化の促進を図り、皇室を国家の一部に纏めて宮中・府中の分離も推し進めようとした。また、法律の公布と勅令に必要な天皇の上諭に関する手続きも改められ、各省についての勅令は閣僚の副署だけで済ませていた内閣官制の第4条を削除、勅令に上諭を加え閣僚と共に首相の副署も必要とする公式令の制定で首相の権限を強化(法律も上諭と首相の副署が必要)、合わせて内閣を首相中心に動く責任内閣の実現を目指した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E5%88%B6%E5%BA%A6%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%B1%80

 勅令には、天皇の署名と担当大臣の副署(天皇の署名の左に記す署名)のみでよかったものが、公式令によって首相の副署も必要となった。

⇒「伊東巳代治<は、>・・・日清戦争以降は山縣有朋の知遇をも得て、明治32年(1899年)に枢密顧問官となり枢密院でも大きな影響力をもった。同年に帝室制度調査局が発足すると、総裁となった伊藤の下で御用掛となり皇室典範増補に取り掛かったが、伊藤の辞任で一旦中断となった。
 明治33年(1900年)、伊藤の立憲政友会結成に際して憲政党の星亨と新党結成を交渉するなどその準備過程には参加しながら入党せず、翌34年(1901年)に第4次伊藤内閣が倒閣すると、伊藤と桂太郎との交渉に取り組み第1次桂内閣の成立に一役買った。明治36年(1903年)に山縣と結託して伊藤を枢密院議長に祭り上げ、政界から遠ざかった伊藤から離れたが、同年に帝室制度調査局副総裁となり総裁に復帰した伊藤と再度手を組み、伊藤に有賀長雄を推薦し明治40年(1907年)の皇室典範増補と公式令公布に尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%B7%B3%E4%BB%A3%E6%B2%BB
というのですから、伊東は、山縣によって、浮き上がっていた伊藤の監視役兼お守り役として伊藤の下に送り込まれていた人物だったと私は見ています。(太田) 

 このことによって、陸海軍に関する勅令においても、首相の副署が必要となり、文官の首相であっても署名しないぞ、と脅すことで、陸海軍への統制を強めることができるようになった。
 またこれは日清戦争まではっきりしていた、文官による陸海軍の統制を再確認しようとするものであった。
 5月・・・<13>日、<山県は>寺内陸相に首相の連署は軍令の性質のものには実施すべきでなく、もし実行されると、統帥の系統を錯乱し、軍政の根底を破壊する、と危機感を示した・・・。・・・
 公式令をめぐる対立には、天皇も心を痛めた。・・・
 9月2日、山県と[調査局総裁伊藤
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4 ]は会見し、・・・ほぼ妥協が成立した<。>・・・
 こうして同年9月12日に軍令<(注83)>第一号が公布された。

(注83)「軍令・・・とは軍事作戦など奉勅命令に関するものではなく、軍事制度に関するものであった。・・・
 軍令による規定された範囲は、陸軍と海軍では相違がある。軍の編制、司令部の官制は陸海軍とも軍令により規定された。学校の官制は、陸軍では陸軍大学校条例(明治41年軍令陸第13号)を始めとして多くの学校の官制が軍令により規定されたが、海軍では軍令制度制定後も、海軍大学校令(大正7年勅令第317号)など学校の官制は勅令により規定し、軍令では規定しなかった。また陸軍においても陸軍士官学校や陸軍幼年学校については、一旦、陸軍士官学校条例(明治41年軍令陸第9号)、陸軍中央幼年学校条例(大正4年軍令陸第6号)陸軍地方幼年学校条例(大正4年軍令陸第7号)などが制定されたが、大正9年になってこれらの軍令は、大正9年8軍令陸第9号により廃止され、ふたたび勅令で、陸軍士官学校令(大正9年日勅令第236号)陸軍幼年学校令(大正9年勅令第237号)が制定された。礼式と懲罰に関しても、陸軍は、陸軍礼式(明治43年軍令陸第5号)、陸軍懲罰令(明治41年軍令陸第18号)など軍令により規定したが、海軍は海軍礼式令(大正3年勅令第15号)、海軍懲罰令(明治41年勅令第239号)など勅令で規定することを変更しなかった。陸軍は、作戦要務令(昭和13年軍令陸第19号)など作戦についても軍令で規定したが、海軍においてはこのようなものを法令として制定はしなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4

 軍令の制度ができたことで、首相が軍事に関しても統制できるという、公式令の法的裏づけは骨抜きになった。
 この時、伊東は韓国統監として、ハーグ密使事件がもとで韓国皇帝高宗(コジョン)を退位させたので、反日ゲリラ闘争である義兵運動<(注84)>が盛り上がり、その対策に苦慮していた。

 (注84)1905年8月に前期義兵が始まっていたが、「1907年7月に日本がハーグ密使事件の責を負わせて高宗を退位させて、第3次日韓協約を結んで韓国軍を強制的に解散させると、解散命令に服しない韓国軍部隊があちこちで蜂起した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%85%B5

 そこで、公式令で譲ったのだろう。」(357~358)

⇒山縣は、親切にもというべきか恐ろしいというべきか、浮き上がってしまっていた伊藤に関し、外地の韓国に統監として「追放」するだけにせず、伊藤から元老の資格を剥奪しなかったのはもとより、あらかじめ内地での帝室制度調査局総裁としての経常的な仕事も作ってやっていて、「追放」後も、その公務でちょくちょく内地に戻ってこれるようにしてやっていたというわけです。
 公式令を作る前に、公式令制定後に公式令を軍令で骨抜きにすると共に、その軍令において骨抜き度を陸軍と海軍で差をつける(「注83」)ということも、あらかじめ、山縣の全般的指揮の下で、伊東巳代治が、企画したものであって、その伊東が山縣と伊藤の「妥協ライン」がそのあたりに落ち着くように伊藤を誘導した、ということでしょう。(太田)

(続く)