太田述正コラム#1719(2007.4.4)
<米国に過剰適応した日系人・フクヤマ(続)>
<バグってハニー>
”collaborator”は単に「共著者」という意味じゃないですか?「それでも「NO(ノー)」と言える日本―日米間の根本問題」という本を小川和久氏と三人で出してますし。先生の解釈だと”Watanabe, a professor at Sophia University, WAS a collaborator of Shintaro Ishihara”と過去形で書いてる意味がわかんないですよね。フクヤマは出版社に紹介されただけで渡辺のこと知らなくて、それは読者もそうだろうから、石原という有名な人をダシにして、昔一緒に本を出したこともあるからどこぞの馬の骨ではないよ、と言ってるだけだと思うんですけど。
それから”Holocaust denier”の部分はそれに引き続く、”I am regularly sent books by Japanese writers ”explaining” that the Nanjing Massacre was a big fraud.”の部分を端折って論じるのはフェアじゃないと思います。つまり「南京虐殺はでっちあげだと主張する本が私のところにしょっちゅう送られてくるが、渡辺はそういう本の著者の一人だ」という意味でしょう。渡辺はいろいろな理由をつけて(それが論理的であるかどうかはともかく)南京虐殺を否定していることは確かです。以下のブログでは、そのような渡辺の講演を書き起こしたものが紹介されています。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid251.html
渡辺はフクヤマとの対話においておそらく自説を紹介したのでしょう。
ホロコーストと南京虐殺は規模も目的もそれが起きた理由も全く異なりますが、それを否定する人たちはそれが被害にあった人たちによるでっちあげだと主張する点においては同じです。フクヤマはこのアナロジーに着目して渡辺をホロコースト否定論者と同列に悪罵したのでしょう。中共のみならず、この「でっちあげ」には東京裁判を行った米英も加担した、と渡辺は主張しているわけですから、普通に考えて米国人がまともに相手することはないでしょう。
また、僭越ながら、仮に太田先生が唱えるようにフクヤマは日本音痴だとしても、我々は簡単にフクヤマの主張を切り捨てるわけにはいかないでしょう。というのは、米政府の対日政策を決定する人々が太田先生と同じ結論にたどり着くとは限らないからです。むしろ、日本に対する「誤解」「無知」「無理解」に基づいて日本の取り扱いが決まることは十分にありえると思います。そのように考えると、安倍首相の不用意な発言は私には残念でなりません。理由もなく日本の対外関係に波風を立てているとしか思えないからです。 「声」は、私のように日米同盟の強化という視点から発されたものではないとは思いますが。
<太田>
とりあえずバグってハニーさんへ。
(「渡部」を「渡辺」と間違えておられるのは、単なる変換ミスであろうという前提で議論を進めます。)
へー。1990年に「それでも「NO(ノー)」と言える日本―日米間の根本問題」なんて本が出てるなんて全く知りませんでした。
私が日本の論壇をフォローしていない盲点ですな。
確かにそれなら、collaboratorは共著者と訳すべきでした。
しかし、フクシマのこの英文コラムを読むほぼ全員の人は私同様、そんなことは知らないでしょう。
ですから、フツーの読者はこの文脈でcollaboratorは協力者の意味として読むはずです。 (「共謀者」と訳したのは少し筆が滑ったことは認めます。)
その場合、協力者であったのが過去のことなのか、現在もそうなのかは、本質的な問題ではないでしょう。
フクシマは、そんな「誤解」の生じないように書くべきだし、書けたはずです。
同じことは、ご指摘いただいたところの、渡部が南京虐殺否定論者であることについても言えます。
フクシマのこのコラムを読むほぼ全員の人は私同様、そんなことについても知っているはずがありません。ですから、私を含めてフツーの読者は、件の個所を、「南京虐殺はでっちあげだと主張する本が私のところにしょっちゅう送られてくるが、渡部はそういう本の著者の一人だ」ではなく、「南京虐殺はでっちあげだと主張する本が私のところにしょっちゅう送られてくるが、日本はそういう国だ」という趣旨であると受け止めるのではないでしょうか。
フクシマはどうして、肝心かなめの「渡部は自分に南京虐殺はなかったと言った」、あるいは「渡部は講演で(本で)南京虐殺否定論をぶっている」といった記述を省いたのでしょうか。
このように見てくると、少なくともこのコラムに関する限り、フクシマはライターとして失格であると言ってよいでしょう。
いずれにせよ、このことから、フクシマ自身が言及したところの渡部の言に限定して、私がフクシマ批判を行ったことは妥当であったと考えます。
なお、渡部は、ご教示いただいた講演において、南京では、敗残兵と目される支那人の掃討が行われたが、このことを当時中国国民党政権は非難しなかったし、もっぱら民間人を対象とした殺害は行われなかった、としているだけであって、民間人や(正規兵の)捕虜が一切殺害されなかったとまでは言っていない以上、この講演だけで彼を南京虐殺否定論者と決めつけるのは困難だと思います。
ちなみに私は、「敗残兵と目される支那人の掃討」は当時の国際法に照らして、全く問題のない形で行われたとは言い難いことをさておくとしても、数はともあれ、殺害された民間人や捕虜がいたことは否定できず(太田述正コラム#253、254)、これが当時の国際法違反であったことは明白であることから、これだけでも南京虐殺はあったと言わざるをえない、というスタンスです。
他方、渡部は、殺害された民間人等の数の多寡を重要視し、殺害された者が少ないので虐殺とは言えない、と考えている可能性があります。そうだとすると、渡部は南京虐殺否定論者だということになるでしょう。
なお、幸か不幸か、米軍は日本軍の敗残兵(便衣兵)掃討に従事する場面はほとんどありませんでしたが、投降の意思表示をした日本兵を殺害すること(これも捕虜の殺害)など日常茶飯事だったし、原爆投下を含む空襲で日本の民間人を大量虐殺したことはご存じのとおりです(典拠省略)。
いずれにせよ、ホロコーストが、ナチスによる、もっぱら民間人を対象とした、組織的計画的なユダヤ人殺害であったことを考えれば、仮に渡部が上記のような意味での南京虐殺否定論者であったとしても、ホロコースト否定論者に相当するとは到底言えないでしょう。
はっきりしていることは、フクシマが、せっかく彼の出世作である『歴史の終わり』の翻訳に手を上げてくれた、日本で売れっ子の評論家であった渡部から何も学ぼうとしなかったことです。
このように見てくると、米国に過剰適応しているフクシマは、皮肉なことに、安全保障感覚・・マイノリティーは言語を含む固有文化を維持し続けることで、危機に共同で対処できるようにすることが望ましいという感覚・・が乏しい、他人が理解しやすいように書いたりしゃべったりすることが苦手である、欧米人以外から学ぼうとする姿勢がない、といった点で、まことに日本人的であることが分りますね。
今春からフクシマは関西大の客員教授を兼務するらしいので、この機会に彼が日本ときちんと向きあい、彼の「日本に対する「誤解」「無知」「無理解」」を克服することを願ってやみません。