太田述正コラム#12926(2022.8.10)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その59)>(2022.11.2公開)

 「・・・山県は、元帥として終身現役の軍人であること以外に、陸軍の山県系官僚閥の長として、陸相を指導して陸軍の枢要人事を決める慣例的権限を保持していた。
 さらに、元老筆頭として後継首相や宮中の重要人事を事実上決める権限、枢密院議長として、また枢密院の山県閥の長として枢密院を主導する権限なども持っていた。
 これら山県の権限は、法的なものだけでなく、慣例上の多くのものに補完されていた。・・・

⇒元老としての権限は慣例上のものであると言えそうですが、陸軍に係るものは法的な権限です。
 というのは、山縣は、陸軍の名番トップだったはずであり、陸軍の全ての将兵に対して上官だった(典拠省略)からです。
 後者の権限の重要性は、帝国陸軍が、維新から終戦まで、日本で最も優秀な人々を、しかも多数、擁していたエリート組織だったことからも明らかでしょう。(太田)

 山県の一挙一動が日本の政局を大きく動かすと見なされ、新聞記者の注目の的となった。・・・
 1916年(大正5)7月13日、西園寺は変装して新聞記者を避け、・・・山県と密かに会見して、寺内を後継とすることで一致した。
 西園寺は、大正政変<(前出)>で傷ついた山県と政友会との関係を修復し、寺内の次の政権を政友会が狙えば良い、と判断したのである。
 7月18日、<1913年に総裁の座を原に譲っていた>西園寺は原ら政友会幹部に、寺内を援助することを約束させた。
 8月3日、山県は・・・大山・松方・西園寺を招いて、<大隈内閣の>後継内閣について会談を行った。
 元老井上馨が前年に死去し、大山・松方は老齢で頼りにならず、自分も・・・大病してかろうじて生還したところであるので、山県は西園寺を元老に加えようと決断したのだった・・・。
 
⇒西園寺の元老入りについては、山縣が、遥か以前から予定していたことを満を持して実行に移しただけだ、ということは、もはや説明を要さないでしょう。(太田)

 他方、大隈首相は9月26日に参内して辞意を内奏し、後任に加藤高明を推薦した。・・・
 <その折、>大山内大臣<は、>・・・元老会議を開かずに加藤に組閣の命があるようにしてほしい、と<の>・・・元老制度の廃止につながる・・・大隈の頼みを拒否した。・・・
 <その話を聞いて>山県は憤慨した。・・・
 山県は、松方・大山両元老が自分と同じ考えであるのを確認し、9月30日、大正天皇に拝謁した。
 山県は大隈辞任問題の経過を天皇に説明し、天皇から支持を得た、と確信した。
 10月4日、大隈首相は辞表を提出する。
 その辞表は、加藤高明を後継首相として奏薦するという異例の行動を取った。・・・
 大正天皇はただちに元老の山県を召し、今後の処置について下問した。
 山県の思惑通りだった。
 山県は他の他の元老と検討してから奉答する、と答えた。
 山県の提案で西園寺も召され、4人の元老会議となった。
 4人は寺内を推薦することで一致し、天皇は寺内に組閣を命じた。
 10月9日、寺内内閣<(注97)>は山県系官僚や寺内と個人的に親しい者を閣僚とし、政党からの入閣のない超然内閣として出発した。

(注97)寺内正毅(1852~1919年)は、「大正5年(1916年)6月24日<に>元帥府に列せられ<ていたが、>10月16日に<朝鮮>総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任<した>。・・・寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。時は第一次世界大戦の最中であり、寺内は大正7年(1918年)8月2日にシベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって9月21日に総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85

 こうして山県は、元老を団結させ、政友会を懐柔し、大隈の挑戦を退けたのである。」(407~408、411~413)

⇒加藤高明は、この1916年の時に首相になりそこね、8年も後の1924年になってようやく首相になることができるわけですが、これは、帝大出身の初の首相の出現も8年遅らせることになりました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E
 ちなみに、加藤と幣原喜重郎は、どちらも岩崎弥太郎の娘を妻としています。
https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/people/09/ (太田)

(続く)