太田述正コラム#12928(2022.8.11)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その60)>(2022.11.3公開)

 「・・・寺内内閣のもとで行われた1918年の夏のシベリア出兵に関しても、司令官人事の調整や最終決定に、山縣が関与している。・・・
 わかることは、寺内内閣の末期になっても、陸軍の重要人事の決定は、大島陸相が山県元帥・寺内元帥(首相)・上原参謀総長(大将)らと相談して行っており、山県が最終決定者として重要な役割を果たしていることだ。
 また重要人事決定にはすべての元帥が加わるのでもなく、陸相を別として、後に陸軍の要職とされるいわゆる三長官(陸相・参謀総長・教育総監<(注99)>)が全員関わる<(注98)>わけでもなかった。

 (注98)「宇垣一成<は、>・・・大正13年(1924年)、清浦内閣の陸軍大臣に就任した。組閣の際、陸軍の長老・上原勇作元帥は福田雅太郎を推したが、田中は陸軍三長官会議の合意を説得材料としており、以後、陸軍三長官の推薦に基づき陸軍大臣人事を決定することが慣例となる。この慣例は、のちに宇垣が組閣する際に大きな壁として立ちはだかることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
 「清浦奎吾<は、>・・・1922年(大正11年)2月に山縣が没すると、後任の枢密院議長に就い<てい>た<が、>高橋内閣が倒れた際には、「憲政の常道」に従って、第二党である憲政会の加藤高明を首相とするべきであるという意見を元老松方正義に伝えたが、もうひとりの元老西園寺公望には容れられなかった。1923年(大正12年)、第2次山本内閣が虎ノ門事件で総辞職すると、総選挙施行のため公平な内閣の出現を望む西園寺の推薦によって、・・・摂政宮裕仁親王より<、>・・・組閣の大命は・・・<1924年1月、>清浦の下に降下した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B5%A6%E5%A5%8E%E5%90%BE
 (注99)「教育総監及び総監部は、<1887年(>明治20<)>年5月31日に監軍部条例(明治20年勅令第18号)によって設置された監軍(事務は監軍部)が前身で、1898年(明治31年)1月20日に教育総監部条例(明治31年勅令第7号)により設置された、陸軍における教育統轄機関であり、所轄学校や陸軍将校の試験、全部隊の教育を掌った。ただし、航空に関しては航空総監部が教育の大半を行い、参謀の養成は参謀本部が管掌した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3

 あくまで、陸軍内の勢力バランスを考慮した、山県元帥を中心とする慣行上の組織で決められたのである。」(419~420)

⇒それが、山縣の死後、三長官協議制に変わったのはどうしてだったのでしょうか。
 1924年の時点で陸軍元帥であったのは、奥保鞏(~1930年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E4%BF%9D%E9%9E%8F ☆
長谷川好道(~1924年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A5%BD%E9%81%93 ★
川村景明(~1926年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E6%99%AF%E6%98%8E
閑院宮載仁親王(~1945年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
上原勇作(~1933年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8B%87%E4%BD%9C
の4名で、この順序で名番が1、2、3、4番だったはずですが、長谷川は、大命降下と同じ月の月末に亡くなっている(★)ので、大命降下時には死の床にあったと思われ、除かれるとして、名番1位の奥が、「天性の軍人らしく、政治向きのことには一切興味を示さず、静かな晩年を過ごした(第5師団長時代、桂太郎が台湾総督を辞任した際に後任を打診されたが断った事もある程)」(☆)の人物であったことから、陸相選びを打診された際に固辞したからだ、と私は想像しており、仮にそうだったとして、閑院宮も、自分が皇族であることと、名番が3番でしかなかったこともあり、陸相選びに関与することを固辞した、にもかかわらず、名番4位の上原が、それなら自分が、と陸相を決めようとしたのを、田中陸相が、奥の固辞の趣旨は、元帥といえども陸軍のポストに就いていない者は、元老でない限り、陸相の選出に関与すべきではないということだと拒否し、(それまでは、陸相と参謀総長が話し合って山縣に陸相候補者達を提示してきたであろうところ、その)陸相と参謀総長に教育総監を新たに加えた3者の協議で新陸相選びをすることとしたところ、爾後、それが慣行化した、ということではないでしょうか。
 そうではない、という典拠があれば別ですが・・。(太田)

(続く)