太田述正コラム#12936(2022.8.15)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その1)>(2022.11.7公開)
1 始めに
HHさん提供の表記を取り上げます。
岸信介に係る3つの本は、次回オフ会「講演」原稿ともろにかぶるので、取り上げにくいことから、緊急避難的にそうした次第です。
なお、岩井秀一郎は(1986年~)、日大文理(史学)卒で昭和史を中心とした歴史研究・調査を続けている(奥付)という人物です。
2 『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む
「・・・阿部内閣の陸軍大臣選任の時だけは、昭和天皇自ら・・・陸軍三長官・・・の更迭などは・・・陸軍大臣、参謀総長、教育総監・・・の合議によって決められ、それを天皇が裁可する<という>・・・慣例を破った。
どうしても梅津か畑[俊六]を大臣にするようにしろ。たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所に持って来ても、自分にはこれを許す意思はない。(原田熊雄述『西園寺公と政局』)
この時、三長官会議では別の人物(第三軍司令官多田駿(ただはやお))を陸相として推薦することが決まっていたが、昭和天皇は梅津と畑(当時侍従武官長)<(注1)>以外は認めない、という異例とも言える意思表示をしたのである。」(8)
(注1)畑は、侍従武官長後わずか3ヶ月だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
ちなみに、畑(陸士12期)も、梅津(陸士15期)も、陸大首席だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E7%BE%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E 及び上掲
[多田駿の位置付け]
「1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が起きた。・・・
当時の参謀本部は閑院宮載仁親王参謀総長は皇族、今井清参謀次長は重病であったため、事実上のトップは石原完爾作戦部長であった。石原は事変について不拡大派であり、満州国の育成に専念して対ソ戦に備えるべきで、中国との戦争は長期消耗戦に陥ると主張していた。しかし、陸軍部内の多くは、この際中国に一撃を加えて懸案を解決すべきとの意見であった。・・・
8月に第二次上海事変が起こると、日中両国は全面戦争の段階になる。この時期、今井清のあとをうけ、多田は参謀次長となる(石原作戦部長の推挽とされる)。多田は、石原、河辺虎四郎戦争指導課長、陸軍省の柴山兼四郎軍事課長と同じく不拡大派であった。・・・9月27日に石原は更迭され、関東軍の参謀副長へ転出となった(この時、関東軍の参謀長は東条英機であり、石原と鋭く対立したという。・・・)。
1937年末、多田は蔣介石との講和のタイミングと見て、ドイツ仲介による和平工作を展開する。この工作は元々、石原作戦部長が馬奈木敬信中佐を通じて、ドイツ大使館付武官オイゲン・オット少佐と極秘裏に交渉を進めていたもので、多田が後を引き継いだ形となった。・・・
1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議では、トラウトマン和平工作の打ち切りを主張する広田弘毅外相に対し、多田は「この機を逃せば長期戦争になる恐れがある」として交渉継続を主張した。・・・
多田を除く列席者<・・杉山陸相、広田外相、近衛総理、米内海相・・>は、次々に和平工作の打ち切りを主張した。・・・
大本営政府連絡会議の結論は「和平工作の打ち切り」であった。・・・
多田の在任した一年強の期間、参謀本部は不拡大方針でいた。また、杉山元・陸相の更迭を盛んに主張していた。
翌16日、近衛首相は「以後蔣介石は交渉相手としない」旨を宣言した(第一次近衛声明)。
8月に石原莞爾が満州から帰国したのを機に、多田と拡大派の陸軍次官・東條英機との対立が深刻化する。元来、多田は皇族総長の下で実務を取り仕切る「大次長」として、陸軍次官を飛ばして直接、板垣征四郎陸相(杉山の後任である板垣は陸士の1期後輩であり、仙台陸軍地方幼年学校の同窓で親しい関係にあった)と接触することが多く、東條次官から不快に思われていた側面もあったが、12月に石原が閑職の舞鶴要塞司令官をあてがわれると、この人事を巡って多田と東條が決定的に対立したのであった。多田は板垣陸相に東條の更迭を要求、対する東條も板垣に多田の更迭を交換条件として抵抗した。結局、板垣の裁定で喧嘩両成敗、両者更迭となった。しかし、多田が第3軍司令官に転出となったのに対し、東條は航空総監へ“栄転の形”となったため、多田は憤慨し板垣と絶縁状態になったという。
1939年(昭和14年)8月、平沼内閣が総辞職し、後継首相は阿部信行大将となった。阿部内閣の組閣時、多田は板垣陸相の後任として<板垣陸相、閑院宮参謀総長、西尾寿造教育総監の>陸軍三長官会議で陸相候補に決定した。候補には他に東条英機、西尾寿造、磯谷廉介の名が挙がっており、中でも東條を推す声が強かったが、板垣陸相を中心とした反対論がこれを制して多田に決まったと考えられている。・・・
人事局長の飯沼守少将が第3軍司令官を務めていた多田のいる牡丹江へ承諾を取るために派遣されたが、関東軍に足止めされているうちに、昭和天皇から「陸相には畑(俊六)か梅津(美治郎)を」との思し召しがあった。
関東軍はこの人事に反対であり、植田謙吉関東軍司令官が板垣陸相に大臣留任を懇請する電報を打つなどして抵抗した。また、昭和天皇は新聞報道で磯谷と多田が新陸相候補に挙がっていることを知り、阿部に「新聞に伝えるような者を大臣に持って来ても、自分は承諾する意思はない」と述べたという(天皇が磯谷・多田を拒絶した背景には、石原(派)への警戒感と推測されている)。昭和天皇は、盧溝橋事件(当時は現地軍の謀略ではないかとの疑惑があった)、張鼓峰事件、防共協定強化問題、ノモンハン事件等で板垣陸相への不信感や陸軍の無統制ぶりへの怒りをつのらせており、自ら一線に立って陸軍を統制する決意であった。・・・
結局、陸軍三長官会議のやりなおしにより、陸相候補は畑となったため、多田陸相は実現しなかった。なお、陸軍三長官会議で決定した陸相候補が覆されたのは、多田の事例が最初で最後であった。 筒井清忠は次のように評する。
「石原(派)こそは、日中戦争不拡大派であり、この時天皇の支持すべき陸軍軍人であったのだ。その石原派で、最も日中戦争の拡大に反対していた多田の陸相就任を天皇が潰したのだった。またしても歴史は皮肉というしかなく、多田が陸相になっていたらというイフは残り続けるであろう」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
⇒板垣征四郎陸相については、杉山構想を知らされていなかったことをコラム#11375で示唆した後、知らされていたことをコラム#11375で示唆し、事実上改説していたところですが、彼が極東裁判の「獄中に記した日記の中で「満洲事変記念日。噫、十七年前ノ今月今日、満州事変ハ成功セリ。其後支那ニ手ヲ出シタノガ誤リ。万死ニ値ス」と杉山構想遂行者らしからぬことを記している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
のは、昭和天皇に累を及ぼさないためのA級戦犯達共通の口裏合わせの一環としての記述だった、というのが現在の私の見方です。
次に、閑院宮参謀総長については、杉山元の「傀儡」だった、とかねてから申し上げてきたところです(コラム#省略)。
最後に、西尾寿造(としぞう)教育総監ですが、彼が、田中義一陸相秘書官兼陸軍省副官であったこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%AF%BF%E9%80%A0
閑院宮参謀総長の下で杉山元に続いて参謀次長になったということは杉山元が西尾を招致したはずであること、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
「東京都長官<当時、>・・・東京大空襲(1945年3月10日未明の物)の後でさえ、時の警視総監坂信弥と連名で“被害者の救護には万全を期している。都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ”と告諭を出した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%AF%BF%E9%80%A0
こと、から、西尾も杉山構想を知らされていた、と見ていいでしょう。
となると、どうしてこの3人のコンセンサスで、杉山構想を知らされていなかったと思われる多田なんぞを次期陸相に指名したかが問題になります。
私は、杉山が、中支那派遣軍司令官だった陸士、陸大同期の畑
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
に言い含めた上で侍従武官長に送り込み、多田の支那駐屯軍司令官当時の1935年9月24日の、中国側を刺激することとなり、大問題になったところの、いわゆる多田声明・・北支より反満抗日分子の一掃<、>北支経済圏の独立<、>北支五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)の軍事的協力による赤化防止<、>の三点を強調、北支五省連合自治体結成への指導を要する、との声明・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
と、上記の大本営政府連絡会議の際の多田の主張との間のブレの巨大さ、を、(もともと、多田が満州事変を引き起こした石原の同志であるという印象を抱いていた)昭和天皇に印象づけ、次期陸相に多田をと奏申しても同天皇が拒絶反応を示すように仕向けた上で、実際に奏申を拒絶させ、多田を徹底的に貶めることで、その後わずか2年での多田の予備役編入(上掲)に繋げた、と見るに至っています。(太田)
(続く)