太田述正コラム#12942(2022.8.18)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その4)>(2022.11.10公開)
「・・・梅津は昭和11(1936)年3月、新陸相寺内寿一のもと、陸軍次官に就任する。
総理大臣は、外務官僚の広田弘毅である。・・・
陸軍省はトップに陸軍大臣がおり、次官<(注7)>、軍務局長がいる。
(注7)「国の各省および国務大臣を長とする庁(経済企画庁,環境庁など)に1人ずつ置かれている職で,その機関の長である大臣を助け,省庁の事務について調整を行い,省庁内の各部局を監督することを職務とする。各省官制通則の制定(1893)以来,国家行政組織法の制定(1948)までは次官と呼ばれた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98-75259#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88
ただし、命令系統として次官の下に軍務局長がいるのではなく、次官はあくまで陸相の補佐役であり、軍務局長は大臣に直接つながり、その幕僚として大きな権限を振るった。
⇒「注7」にも照らし、そんなことはありえません。
陸軍省や海軍省は別だというのなら、岩井はその根拠を示すべきでした。(太田)
しかし、梅津の場合はこれが大きく異なった。
彼は陸相と軍務局長をしっかりと抑えていた。
ある軍務局員が書類を上に持っていくと梅津の手にも渡され、これを訂正して差し戻したことがあった。
このようなことはかつてなかったようで、「おおげさにいえば、軍務局はじまって以来のことだ」と局員一同、驚いたらしい・・・。・・・
⇒陸軍省では決裁文書等を次官に回さない、ということが示唆されているわけですが、とにかく、にわかには信じ難いですね。(太田)
そして梅津は、この陸軍省の機構改革にも手をつけた。
具体的には兵務局<(注8)>の新設、および軍務局<(注9)>内における軍務課の設置である。・・・
(注8)「「二・二六事件」が起こり、軍紀・風紀の監督部署として軍務局から分離・独立した。当時の所属課は兵務課・防備課・馬政課。主な所掌事務は軍紀・風紀に関する事項、典範令に関する事項(軍部内に係る規則のことで正しくは典令範だが、典範令(てんぱんれい)と呼び慣わした。)についての事項や、要塞地帯・国防用土地に関する事項、軍馬の管理に関する事項など。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81
防備課は、大正15年9月に陸軍省軍務局に設置された課。要塞・防空に関する事項を掌った。昭和11年8月1日新設の兵務局に移管。昭和14年1月防衛課に改組。」
http://shirakaba.link/betula/%E9%98%B2%E5%82%99%E8%AA%B2
(注9)「1926年の官制改正の際に・・・、軍事・兵務・防備・馬政の4課体制となり、直後に徴募課が設置されて5課体制となった。
局務が大きく変容するのは・・・二・二六事件後・・・である。陸軍軍備その他一般軍政と予算管理を行う軍事課と、国防政策立案及び帝国議会との交渉、国防思想の普及などを扱う新設の軍務課の2課体制となり、徴募課は人事局に移管、他の2課は分離されて兵務局となった。更に1939年以後、軍務課は国防大綱についても管掌するようになり、総動員体制の企画立案に関与するようになった。太平洋戦争末期には物資の生産統制を行う戦備課を設置するとともに、大本営編制並びに勤務令の改正によって軍務局員は全員大本営陸軍参謀部第四部員と兼ねることになり、軍務局長が同部長職を兼任することとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
<この結果、>国防政策や議会との交渉など、政治に関与する事項を新設の軍務かでまとめて行なうことになった。
そして、・・・兵務局内に兵務課と防備課を置くこと、・・・兵務課が軍事警察や軍機の保護に関する事務を執ることが決められた。
改正以前の軍務局は相当煩雑な事務に追われていたようで、局長は「群務局長」などと言われるほど、書類の決裁に時間を取られ、大臣や次官を補佐する仕事が疎かになっていたという・・・。(47、56~58)
⇒そもそも、二・二六事件も、杉山らは生起することが分かっていて対処しなかったと私は見ている(コラム#省略)ところ、兵務局の軍務局からの分離は、翌年に開始を予定していた秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂戦争の終末期において、空襲や日本上陸作戦が予想されたことから、それに備える態勢を強化するためだった、というのが私の見方です。
なお、軍務課の新設は、軍事課に陸軍省内の権力が集中し過ぎ、かつまた、上記戦争を目前にして既に軍事課長が繁忙になり過ぎていたからでしょうね。(太田)
(続く)